『凌雲帳』緒言
茶道は點茶(てんちゃ)・喫茶(きっちゃ)の技に託して、心を修むるを以て本領とす。されば、茶道は心を修むるの術なり。點茶・喫茶の所作は其末なり、居士横難(わうなん)に際し後世茶道の誤まられん事を憂へ、平生の手記を燒棄せられたり。以来茶道は南坊の遺書南坊録あるのみにて、不立(ふりう)文字なり。然るに、後世所作の上に主々の工夫が加へられ、茶道の形式は、次第に整ひ来たるの観あるも、一面に於て、末技に拘泥して、本道を没却するの恐れあり。又止むを得ざるの趨勢なり。乍去(さりながら)所作は、本に至るの捷徑、修行の方便なる事を思へば、又忽(ゆるが)せにすべからず。茲に自ら備忘のため、其大要を記す。
緒言の読み方は【しょげん】。たまに「ちょげん」と読む人がいますが、「ちょげん」というのは「誤用が定着した慣例読み」なので、実は間違いです(笑)
最近は慣例読みや誤用も辞書にどんどん載るので、間違いではないと思っている人が居ますが「慣例用法」や「慣例読み」というのは「間違いが定着したもので本来のものではない」という意味が含まれていることを知ってほしいですね。
さて、本文です。
「茶道は點茶(てんちゃ)・喫茶(きっちゃ)の技に託して、心を修むるを以て本領とす。されば、茶道は心を修むるの術なり。」
これは剣道などと同じように、茶道が「道」、すなわち心の鍛錬を行うものであることを簡潔に述べています。すなわち、喫茶や点茶というものを習い、学び、行うことによって、心の修行をすることが「茶道」という術である……と書いてあります。
近年はこの「心の修行」が廃れてしまい、規矩を無視した近代数寄の系譜が有力です。ですが、やはり茶道は「心の修行」ですよ!
ただし、茶道は「侘び寂び」だけではないので、そこは勘違いしてはいけません。
侘び茶はあくまで利休の茶風。
へうげが織部の茶風。
綺麗寂びが遠州の茶風。
「點茶・喫茶の所作は其末なり、居士横難(わうなん)に際し後世茶道の誤まられん事を憂へ、平生の手記を燒棄せられたり。」
其末というのは「そのすえ」と訓みます。つまり、点茶や喫茶の所作は心の修行の術のその終わりである……ん?どういうこと?
居士とは、利休居士のこと。
横難とは「思いがけない災難」のこと。
利休が思いがけない災難にあって、自分が指導をできなくなってしまうと、手記が残っては茶道の意図が間違って伝わってはいけないので、普段から書き残していた書付を焼き棄(す)てた……ということでしょうかね。
現在でも火箸の位置で、図の看取り方から、横に立てる、後ろに立てる、前に立てると説がいろいろあります。図や文章が残っていることはとても大切ですが(このblogもそうですけど)、それはあくまで予習であって、実際に物を触って稽古して、その上で量稽古を積まなければなりません。
「以来茶道は南坊の遺書南坊録あるのみにて、不立(ふりう)文字なり。」
不立文字とは「文字や言葉による教義の伝達のほかに、体験によって伝えるものこそ真髄である」という意味です。
この言葉を聴くと「行こそ大切」と思い込んで、文字や言葉から学ばず、稽古に没頭する人がいますが、決して「文字や言葉による教義の伝達を否定しているものではない」ということを忘れないでください。
ただし、文字や言葉だけの研鑽では決して駄目で、実践との両輪であることも忘れてはなりません。
ですが、ここでは「経典の言葉から離れて、ひたすら坐禅することによって釈尊の悟りを直接体験する」⇒「南坊録から離れてひたすら稽古することによって利休の到達したところを体得する」という意味になっています。
利休が書付を燃やして以後、茶道の奥義の書は「南方録」しかなく、南坊流以外の流派は、文字から離れてひたすら稽古することによって利休の到達したところを体得するしかなかった……という意味になるでしょうか。
「然るに、後世所作の上に主々の工夫が加へられ、茶道の形式は、次第に整ひ来たるの観あるも、一面に於て、末技に拘泥して、本道を没却するの恐れあり。又止むを得ざるの趨勢なり。」
それなのに、後から定められた所作に工夫が加えられ、茶道の形式は段々と整えられてきたようにみえるが、ある一面では細かいことにこだわって本来大切にすべきものを捨て去って忘れてしまう虞れがある。それもまた、やむを得ない時代の趨勢である……というのが現代語訳になりますでしょうか。
表千家近現代三代宗匠、即中斎・而妙斎・猶有斎の仰る「どうでもいいことが違います」というのは、茶の本道を忘れてはならないが故におっしゃることであり、本当にどうでもいいということではないんです。そこに固執して本義を忘れてしまっては意味がないよ……ということなんです。
「乍去(さりながら)所作は、本に至るの捷徑、修行の方便なる事を思へば、又忽(ゆるが)せにすべからず。茲に自ら備忘のため、其大要を記す。」
そうは言っても、所作というものは本道・本義に至る手っ取り早い方法(=捷徑)であって、修行にとって真の教えに導くための仮の手段(=方便)であることを考えれば、いい加減にしておくわけには行きません。ここ(茲)に、自分の備忘として、その大事なところを書いておきます……とこういうことでしょうか。
私にも師匠がくださった書付があります。
師匠はそれを「誰にも見せてはならない」と仰りました。
私にだけ受け継ぐということです。
それを私もまとめておこうと思っています。
それは「教わる側のためではなく、教える側のため」に。
ただし、師匠の原本は誰にも見せません。
私が師匠の原本を元に、規矩を理解した人にだけわかるような要綱を作ろうということであって、誰でもが見るべきものではないからです。
この凌雲帳の解説がその契機になることを期待しております♪