土曜日(2017年10月14日)は待ちに待った柳営茶会の日です。
ここのお茶会は四席設けられていますが、三席しか入れず(券が三席分しかついてません)、下手をすると一席しか入れないこともあります。しかし、それでも身に余る光栄のお茶会ですが。
まぁ、もともと大寄せなどというものは、全席入れると思っていく方がおかしいのですけれどね(笑)
しかし、世の中には入れなかった茶席の分のお菓子を寄越せ!とかいう人がいるのだとか。考えられませんね(呆)
それを聞いた当時七歳の我が息子は「だったらお茶会に来ないで、そのお金でお菓子買って家で食べたらいいのに」と言ってました。子供の方が本質をよくわかってますよ。恥ずかしくないのか、大人!
それはさておき。
受付を済ませて、牡丹の間に行こうとしましたら、宗靜先生が「艸雷庵(そうらいあん)が空いてるって!」といい始めまして、先に艸雷庵へ行くことに。
私としては先に濃茶席に入りたかったので、牡丹の間か不昧軒のほうが良かったのですが。
柳営茶会は大寄せには珍しく「濃茶」と「薄茶」が出ます(多くは薄茶ばかりです)。個人的には三席しか入れないので「濃茶」一服に「薄茶」二服かちょうどいいと考えておりました。今年は牡丹の間(安藤家御家流|濃茶)と艸雷庵(旗本小堀家小堀遠州流|薄茶)、月窓軒(平戸松浦家|鎮信流)に回ろうと思っておりました。
艸雷庵は近代女流茶人の筆頭にも挙げられる堀越宗円が寄進したもの。
益田鈍翁に可愛がられた堀越宗円は、裏千家の淡々斎の門下で、女性ではじめて老分(ろうぶん※|裏千家の重鎮さんのことだそうで)になった方だそうですよ。
こちらは小堀遠州流の小堀宗圓宗匠のお席で、立礼でした。整理券を頂いて外待合に並びます。外待合は気兼ねなくおしゃべりできるのがいいですね(笑)
しばらくして、寄付へご案内がありまして、上がりますと、床には白糸の滝のような細い儚げな滝の画賛。十三代小堀宗博宗匠の筆。和歌が添えてありますが、達筆で読めません(汗)
荘ってあった茶杓の筒(荒削りのもの)に歌銘があるので、必死に解読するも読めたのは銘の『山ひ免』のみ。まだまだ精進が必要ですね。
本席に案内されると、普通のものに見える立礼卓があります。違うのは控えめに爪紅になっていることでしょうか。席に着くと、なるほど遠州流らしく七宝紋が前面に透彫りになっておられました。こちらは当代宗圓宗匠のお好みだとか。華美ではない綺麗寂びを好まれる遠州の茶風を感じます。
床は全面床で、中央に高橋箒庵の像が安置されています。
お軸は家綱公の達磨の画。家光の鶴の絵もそうですが、見事としか言いようのない画です。
徳川宗家よりお借りしたものでしょう。
花入はスッとした遠州流さんらしい綺麗寂びの風情のある竹一重切。これは大嶺宗観作。花は……なんでしたっけ(汗)
風炉は鬼面鐶付で釜は遠州好の七宝紋。荒木喜兵衛作。面白いことに、客付の釻だけ下ろされました。思わず顔を見合わせる私と宗靜先生。もちろん他流ですから、こんなに面白い手は後で質問しよう!という意気込み満点(終わってからお聞きしました)。
水指は萩で、これはそれほど古いものではないようでしたが、立礼卓に、雪山が見えるような素敵な組み合わせ。写り込む様は「逆さ富士か?」という風情で、流石は宗圓宗匠。秋と萩を掛けられてのチョイスかもしれません。
持ち出された主茶盌は『信楽』。
一見、御本?と思うようなくすんだ色をしていながら、江戸中期のものでしょうか、軽い。信楽らしくない青味のある器膚に自然釉が薄く釉景を醸しています。
そして、運び出された深い春慶?と一瞬思わせるような溜塗曲建水は、小堀宗通好だとか。そこから現れた蓋置は、三宝のような四方形をした黒い塗物。変わった形で興味津々です。
菓子は焼き麩煎餅で山もみじの焼印。流水の和三盆が添えられていました。紅葉を使わず、秋の風情を重ねて秋を演出し、長雨に流される紅葉を菓子盆に盛るとは、侘びています。
道具組みを綺麗にまとめて、菓子で侘びるというのは、案外難しいもので(菓子は華やかになりがち)、なかなか市井の茶会ではお目に掛かれません。
次茶盌はぱっと見伊羅保か?と思わせる高取。古高取かもしれません。半分を亀甲形のように凹ませ、端正に歪んだ形をしたこの茶盌、掌にピタリと吸い付くように収まります。
そうそう、立礼卓では拝見のとき、当流では小帛紗を敷くのが良いとされます。これは下が畳ではなく塗物の机であること、前傾姿勢で低く見ることができないためです。
替茶盌は手にとって拝見できませんでしたが、数茶盌とは一つだけ違う白い七宝紋の天目形で、飾り模様が少ない(外側の上縁に七宝繋ぎが一列あるだけ)ので仁清だとは思うのですが、あの透明感からするともしかしたら白薩摩だったかもしれません。
数茶盌はやはり黒帯に七宝繋ぎで、替茶盌と模様を揃えるあたりが、綺麗寂びを感じました。
茶器は、豊公(豊臣秀吉)に献上された遠州蔵帖写で、形は寸切。朱塗の蓋に菊の盛蒔絵が施されており、即中斎好みの春秋棗がこれを模した好み物であろうと思いました。
席が終わって、蓋置を拝見すると、天面に青貝の七宝紋。そして、側面に葵の御紋が一面に二つずつ。徳川家と旗本小堀家との繋がりを垣間見る気が致しました。
そして、香盒。本物の唐物香盒です。
現在では真塗と言われてしまう蝋色塗に白・朱・青(緑)色漆で龍が描かれています。内朱は少し割れていましたが、伝来の唐物だからこそそのまま使う(香盒だからというのもありましょうが)という伝統を保持し続けてきた流派の誇りを感じされられるものでした。
そして、像の反対側には、遠州好みの茶箱。茶籠のように紐があり、籠ではなく上がすぼまってそれぞれの面が台形になりつつも、面取りされている根来。おそらくは江戸中期ごろ実際に使われていたのではないか?と思います。
お客様の応対がひとしきり終わられたところで、先程の釻を片方だけにした理由をお聞きしたところ「不完全さを表すためのものです」と即答が(これは半東さん)。つまり、真台子などの完全が求められる点前でないものは、不完全であるのだから、両方の釻を下ろさず、片方だけ(しかも客付のみ)下ろすことで、綺麗寂びの道具組みの中に侘びた風情を取り込むためのものなのだと気づきました。
私は華美が苦手で、渋いもの・侘びたものが好きで、初めて柳営茶会に寄せさせていただいたときに宗圓宗匠が持たれた大広間でのきらびやかさにそれが綺麗寂びだと捉えてしまい(勘違いでしたが)、小堀宗圓宗匠のお席を敬遠しておりました。
しかし、それは数年後、偶々廊下からでもよろしければ……と入れてくださったときに浅はかであったことを思い知ります。なんとも見事な侘茶でありました。それも青磁の茶盌を使っていたにもかかわらずです。そして、その時、私の髷スタイルが生まれたのです。
席が終わり、人垣の向こうから道具を見ておりましたら、宗圓宗匠が私を手招きして呼んでくださり、青磁の茶盌を手に取らせてくださいました。
その際「君のその髪は自毛かね?」とお尋ねになられた「はい」と答えると「それだけあると髷が結えるねぇ」と仰られたのです。それで、その後、茶会の際には髷を結うことにさせていただきました。
お陰で、多くの方に顔を覚えていただき、過分にも正客にあげていただき、それに相応しい茶人になろう!と精進を忘れずに居られます。
これからも、柳営茶会には死ぬまでーーいや、死んでも?寄せさせていただければ幸いと思います。
(つづく)
※老分【ろうぶん/おいぶん/おいわけ】
歴史的には【おいわけ】が最も古い。商人の中で重鎮である会合衆や納屋衆と同じ意味で使われていた言葉。【おいぶん】は三井家の使用人の身分で、支配人を意味する言葉。裏千家では【ろうぶん】と読むらしい。