茶杓師・安住樂風氏に作っていただいている瀬田掃部作『石原休伯様』写の石原休伯という人物について調査中。
 
 添状によれば、『石原休伯様』は松浦鎮信公が持っていたもので、金森宗和が一目見て美しいと称えたとのこと。鎮信公より石原休伯へ遺され、石原休伯より大庭慶閑へと伝わり、大庭慶閑より穂時筑前に与えられた。しかしながら、予が持っている(予は誰か不明)……という由緒になります。
 
 この中で一番先に解ったのは大庭慶閑です。大庭慶閑というのは、細川綱利公に仕えた医師で、寛文九年(1669)に幕府の陽明学排斥に連座して暇を出されていることが解りました。
 
 しかし、石原休伯が不明。
 
 休伯で調べると、蒔絵師の古満休伯、絵師の狩野休伯(長信、昌信)の三名がヒット。しかし、石原という苗字とは関係がなさそうです。
 
 鎮信公の家臣にも石原という苗字は見当たりません。
 
 大庭慶閑が細川氏家臣なので、細川氏を調べると、侍帖には「石原」の名が見えることから、細川氏の家臣の可能性があります。しかし、それだと鎮信公との接点が見えにくくなります。
 
 ちらほら調べていくと、石原新左衛門・石原無堂という名前が出てきました。
 
 石原新左衛門というのは旗本の石原新左衛門で、石原正武―正氏―正勝という系譜があります。この内該当しそうなのは正氏で、生年不詳〜宝永7年9月14日(1710年11月4日)で、元禄元年(1688年)5月5日に父が死去して家督を継いでいます。
 
 この石原正氏は赤穂藩の後始末をしていたりします。
 赤穂藩の後始末というのは、赤穂城の召し上げが決定し、引き渡しの際に代官として民政を担当したということです。

 ちなみに受城使は、脇坂淡路守と木下肥後守。吉良氏が宗徧流と関係があったことは知られていますが、宗徧は、脇坂氏の茶頭を勤めていますので、吉良派の脇阪氏が遣わされることになったものでしょう。

 受け渡し後の軍務担当は正使は荒木政羽、副使が榊原政殊(使番)。代官となったのは、石原正氏と岡田俊陳。

 荒木政羽というのは荒木村重の一族荒木元清の玄孫(荒木元清→元満→元知→政羽)。
 おや? ここにもなにやらお茶の香りが。

 金の間というところで、茶が呈されたときに、大石内蔵助が御家再興の嘆願するのに際し、石原が「内蔵助の申分は余儀ない事。江戸に帰ってから御沙汰申し上げても苦しからぬ事ではござるまいか」と助け船をだしたとのこと。これによって、不名誉な開城でも家中が受け入れられるようにする配慮がなされた……ということのようです。
 
 さらに、討ち入り後の赤穂浪士が預けられていたのは「細川綱利邸」というのですから、暇を出されていた大庭慶閑とのつながりの線もでてきます。もしかすると、大庭慶閑は陽明学排斥後、許されて再出仕していた可能性があります。
 
 松浦鎮信公と赤穂といえば、「松浦の太鼓」。討ち入りした吉良邸は鎮信公の平戸藩邸の隣。反対側が上杉家。石原新左衛門が大石内蔵助の嘆願を荒木政羽にとりなしたことに感激していらしたのでしょうか?
 
 松浦鎮信公の歿は元禄16年10月6日(1703年11月14日)。石原正氏は宝永7年(1710年)ですから、符合しますね。
 
 石原休伯は石原正氏の可能性が濃厚です。
 
 お詳しい方がいらっしゃいましたら、是非、ご教授ください。