茶友の宗泰先生から面白い論文を見せていただきました。そこに書かれていたことと、今までの自分の考えを絡めて台子の奥秘についてをまとめてみます。

 先ず、台子が点前に用いられるようになったのは、足利義教が病になった際に快癒祈願の見舞い品として下賜された茶道具一式からのことと考えられます。

 それまでの台子は床荘りの一つでしかなく、それ以後も茶道具が鑑賞の対象として床に荘られたことを鑑みても、まず間違いないことです。また、同時代資料にも、台子から荘られていたことがわかります。

 この頃の道具組みには規矩などなく、それぞれの好みに応じて、今では考えられないような組み合わせが行われています。

 これを整理し、体系化したのが中尾真能(能阿弥)です。足利義政に仕えた同朋衆(道具の保管や修繕、管理、鑑定を行う人たち)で、足利義政の命により作法を定めます。これが足利義政の東山御殿内の装飾に関してまとめられた『君台観左右帳記』に記された「極真の三段」となる訳で、これ以後はこれを基本とする台子点前から生まれていきます。

 ここまでは台子が書院のものであったのに対し、村田珠光が数寄屋における台子点前を拓きます。書院と数寄屋の台子の大きな差異は「火箸を差すかどうか」であったようです。この段階で数寄屋台子二段があると考えられます。

 その後、武野紹鴎が台子でない棚物を生み出すにおいても、さして台子が秘伝化した様子はありません。誰にでも台子を相伝されていたと考えるのが自然でしょう。

 これを覆すのが豊臣秀吉による『台子相伝の許可制』です。これにあたって秀吉は辻玄哉から台子を習ってくるように千利休に命じ、新たな台子点前を編纂させています。

 これは利休歿後、秀吉が古田織部に町人茶と武家茶を分けさせたことに繋がりますが、それ以前に、足利義政が能阿弥に極真の三段を定めさせたことに比されるほうが正しいように思われます。

 この時生み出されたのが「乱れ(または『乱置』)」ではないかと考えられます。

 のち、利休は有楽斎に「茶の湯の奥義は台子ではない」と伝えたといわれ、利休の目指した茶道が台子から乖離していたことがわかります。また、有楽流は奥秘を四段として伝える(数え方にもよる)そうです。

 とはいうものの、秀吉が行った台子許可制度は武家の格付けを確かなものにし、これを支える茶頭に相伝されたことも確かです。

 これが今日の家元制度の原型となります。それまでの皆伝を廃して台子を秘伝化することで、家元の権威を強化する訳ですね。

 このため、江戸中期以降、主に武家茶において、実際の点前とは関係ない部分でそれぞれの流儀における点前の体系化を担って別途進化していくことになります。

 これに拍車を掛けたのが南方録で、今日多くの方が影響を受けていますが、それを利休の理念として読むことは危険であり、偽書と歴史家が断ずる要因でもあります。

 ただし、江戸中期以降の乱れていく点前・道具組みをある程度流れを作ったという意味では、茶道史において大きな意味を持ちます。立花実山の理想が仮託された茶道の指南書であると踏まえて同時代資料と考えるべきです。

 この辺りの変化がどういう要請によって行われたものか考察すると奥秘が各流派で微妙に違っている答えにたどり着ける気がします。

 こうした流れの中、千家でも奥秘十二段(内二段は『真台子』または『奥義』または『真之行』として、もう一つは『乱れ』または『乱飾』または『行之行』)が設けられ秘伝化して行く訳です。

 いやはや途方もないことになってきましたね。