発することがどうなのか?ということを小難しい理屈で述べている人が時々います。そういうのを見ると「若いなぁ……」と感じます。
というのは、そういうことを言うこと自体が、他人を意識して発することに気づけていないからです。

 人は発さずにはいられません。
 生きるとは自己表現の極致であり、存在そのものが、言葉となって発しています。その上に文章を書き連ねるのですから、自己表現に他なりません。

 その方が仰るには、「利休が台目席で正客から点前を隠したのは省いて、客へのもてなしをより際立たせたからだ」そうですが、それも一つの見方だなと思う一方、私は逆に、「隠すことは人の秘事を覗きたい欲望を掻き立て、気配で点前を見るということを客にさせる」ということであり、客に真剣に気配や音に五感を研ぎ澄まさせた利休の迫力というか凄まじいまでの求道の志をひしひしと感じるわけです。

 それは究極の見せるではなかったでしょうか。

 本当に発することが良くないと思うのなら黙っていればいいのです。黙々と茶を点てたらいい。問答もなく、挨拶もなく、ただ粛々と進む葬儀のように。

 しかし、茶風とは表現です。発さなければ、茶風は誰にも感じてもらえません。その矛盾はどう考えられているのかお聞きしたいところです♪


 私は自分を表現したい。
 故に発しています。
 己の哲学は己の茶に現れます。
 見たくないものは見なければいい(笑)
 見たいものを見ればいい。

 究極、発することを疑問に思うなら、何もせずただそこにあるがいいと思うのですよ。

 茶を点てるとは表現です。
 私にとっては茶人とは点ずる詩人です。
 詩人とは騒人といわれます。心に表現したいことがたくさんあるため、心がいつも言葉で騒がしいのだそうです。
 実は、無心にあろうとすることさえ、それは有為なのです。発しているのです。

 しかるに、発さないということは、「茶を点てない」ということにさえなります。つまり、黙ることはなにもしないことなのです。

 故に、敢えて言いましょう「黙する者は茶人に非ず」。