茶道は「侘びと寂び」というのは誤りです。
 侘び寂びというのは、茶道の好みの一つです。

 では、侘びと寂びというのはなんでしょうか?

「侘び」

  茶道・俳諧などにおける美的理念の一。簡素の中に見いだされる清澄・閑寂な趣。中世以降に形成された美意識で、特に茶の湯で重視された(出典:デジタル大辞泉

「寂び」
1 古びて味わいのあること。枯れた渋い趣。「―のある茶碗」  
2 閑寂枯淡の趣。「―に徹した境地」  
3 声の質で、低く渋みのあるもの。「―のある声」
4 謡曲・語り物などの声の質で、声帯を強く震わせて発する、調子の低いもの。
5 連歌・俳諧、特に、蕉風俳諧で重んじられた理念。中世の幽玄・わびの美意識にたち、もの静かで落ち着いた奥ゆかしい風情が、洗練されて自然と外ににおい出たもの。閑寂さが芸術化された句の情調。→撓 (しおり)  →細み →軽み

 寂びは少しわかりやすいですが、これじゃ、侘びはなんだかよくわかりませんね。

 侘びとは「侘ぶ」という言葉の名詞化です。
 これは「劣った状態や不足すること、思い通りにならないことからの寂しさを表す」言葉で、そこから「簡単で質素な中に深い趣を見出す」ことへと変化します。


 これに対し、寂びは「寂ぶ」の名詞化です。
 これは「時間の経過とともに劣化した様子」の意味から、劣化したと捉えるのではなく、「味がでた、経年による重みが出た」ととらえることで、素晴らしさが付加されたと考えることへ変化します。

 この概念、村田珠光が「発明」ではなく「発見」したものです。
 というのは「お金がなく高価な茶道具ではない間に合わせのもので愉しんでいる下々の中から取り上げたもの」だからです。

 ただ、間に合わせのものをただ間に合わせとするのではなく、その侘びと寂びで美と美でないものに選別し、美のみを残したことに、村田珠光の偉大さがあります。

 そして、一休禅師から、墨蹟を拝領し、茶の湯の墨蹟開祖となり、禅と茶を結びつけた……とされていますが、茶禅一味という言葉は昔からあり、別に村田珠光の専売特許ではないので注意が必要です(そもそもの発祥は唐の夾山和尚[805年‐881年]の逸話です)。

 村田珠光の凄さは、それまで唐物の水墨画や色絵が多かった掛物を文字の世界にすることで、虚飾を排することに成功したことです。

 ほかの道具をどんなに侘び寂びの世界にしたとしても、掛軸が華やかな掛物では、書院茶から逸脱できないからです。

 侘びとは、日常の中から生まれた不完全なものを愛する心と、日常の中に埋もれた培われる月日を愛する心を日本人に呼び起こす、不思議な概念なのではないかと考えます。