本日は旧暦二月二十八日。利休を祖とする三千家では利休忌が行われます……といっても、表千家は新暦3月27日、裏千家と武者小路千家は新暦3月28日に追善供養を済ませています。

 あくまで、旧暦に拘る方(私みたいに?)向けのご案内ということにしてください(笑)

 三千家では、利休坐像遺偈賛の掛軸に、楽焼の三具足(香炉、華瓶、燭台)と供茶茶盌、盛物台を用いるようになっています(これでなければならないということではないようです)。
 
 道具については過去に記事にしていますので、参照いただくとして(【道具】三具足のこと)、利休忌=利休の命日――すなわち、利休の死について話したいと思います。

 利休の死は切腹という「武人が身の潔白を証明する死に方」で行われています。
 これは当時、大変名誉なことであり、家名を重んじる傾向にある武家では、家名存続のための大きな手段になっていきます。

 そもそも、秀吉の派手好みと利休の侘び好みの対立ということが示唆されている訳ですが、秀吉は現実的に批判をされた山上宗二を斬首させていますが、利休は批判をせず、秀吉の好みを取り入れて新しい美を造り続けて行きます。つまり、ここには対立構造というよりも、パトロンの要望の上を行く芸術家としての利休が見えてくるだけであり、さして切腹の理由にはなりません。

 そもそも切腹とはどの程度の罪に対して行われるものなのでしょうか。
 江戸時代においては武家にのみ許された死に方で、主君から命ぜられて自らの行いによって罪を贖うということが含まれています。つまり「嫌疑による罪を腹を裂いて潔白を証明する」という意味になります。

 つまり、利休はなんらかの「嫌疑」を掛けられていたということになります。
 表向きの理由は、どうであれ、実際には嫌疑を掛けられていたが証拠はなく、秀吉はこれを赦すために切腹を申し付けた……とするのが、最も自然な落着であるように感じます。

 その嫌疑とはなんでしょうか?
 おそらくは「次の天下人」のことであったのではないかと。
 この頃の大名は茶の湯をしない者は「風流を解さぬ品のない者」として蔑まされていた部分があります。これに反発していたのが石田三成や上杉景勝です。とはいっても、上杉家は前田慶次を雇い入れるなどの傾奇を解する大名で、風流を解さぬとは思われていません。つまり、石田三成とそれ以外の人たちの対立ということになります。

 いわゆる文治派と武断派の対立です。
 この両方を抑えていたのが羽柴秀長でした。そして、利休を庇護していたのも実は秀長です。この秀長が亡くなってしまい、後ろ盾を失った利休は政争に巻き込まれ、石田三成ら文治派から糾弾されたというのが、私の見方です。

 次の天下人に秀頼を就けたい秀吉と、そこに付け込み官僚体制を敷きたい三成、大名となった子飼いの武断派たちは自らの手で秀頼を守ろうとする。つまり「豊臣体制をどういう手段で維持するか?」という対立です。そして、武断派と打倒豊臣体制の筆頭格である家康を結びつけないためには「利休を排除する」ことが三成らによって画策されたのではないでしょうか。

 それは結果として、秀吉麾下の子飼いである武断派が利休の茶道の弟子とつながっており、こぞって家康に接近してしまうことになり、豊臣体制が崩壊していく訳ですが、それこそが三成と対立した家康の狙いであったのではないかと考えます。

 いずれにせよ、利休の切腹は「謎だらけ」です。
 是非、利休忌にちなんで、皆さんで謎に挑んでみていただきたいですね。