織田信長が茶道御政道行い、茶道を部下の統制に用いたことで、「茶道と政治の関わりが生じた」と考える茶人は少なくありません。また、「利休の切腹故に、茶席で政治の話(なまぐさ)を忌むのだ」と実しやかに語る人がありますが、本当でしょうか。

 茶道は元々が「政治的要望によって生み出された様式美」であるということを見失っているように思います。

 茶道の様式が確立するのは、足利義政が能阿弥(中尾真能)に命じて真行草の台子点前を定めてからのことですが、実はそれ以前から、茶道は足利将軍家によって整えられていた歴史があります。

 余り知られていないことですが、足利義満が義持に将軍職を譲って、北山に建てた別邸(金閣寺)では、闘茶に代わって茶宴とも言うべき、茶会が開かれました。北山文化というのは、寝殿造の荘厳華麗な外観に対して、内に潜む清淡な気風と時代精神が横溢しており、そこで営まれた文化的生活の水準の高さを象徴しています。当然当時の風潮にのって、義満も唐物を蒐集していました。この北山御物とも言われる品々が、後の東山御物において重きをなしていく名物となります。

 義持は子義量に先立たれて後、後嗣を立てずに亡くなります。これによって室町幕府は権力闘争が始まり、将軍権力が管領の差配するところとなり、籤(くじ)引きで選ばれた義教は将軍権力を回復するために、改革を断行します。この際の権力の権威付のために茶の湯を利用したことが、茶道の格式が定まっていく最初の要因です。

 義教が将軍になって後、後花園天皇より鎌倉茄子・花山天目・青瓷雲龍水指が下賜され、義教本復後に行った三種飾りの献茶が記録に残っていますが、これが「三種極真の飾り」として初めて台子点前が定義されるに至ります。

 義教の後継者である義政は、茶の湯に没頭し、父義教から使える能阿弥(中尾真能)によって「真・行・草」の点前が確立します。これが「奥秘」の原型です。「君台観左右帳記」に記された「茶湯棚飾」にそれが記されています。残念ながら「君台観左右帳記」は原本が紛失されており、写本や刊本のみが遺されいますが、室町期の唐様文化を今に伝えています。

 つまり、茶の湯とは「政治的な権威付のために格式を設けるために作りだされた」といえます。それが変質していったのは「応仁の乱」によって、保護者を失ったからであると言えます。

 文化に傾倒しすぎた義政は、政治を顧みず、権力闘争を拡大させてしまい、結果として足利将軍家が文化の保護者でありつづけることができず、茶の湯と名物は商人たちの手に渡って、新しい茶の湯文化が興ります。

 この嚆矢が村田珠光であり、ここから侘茶が始まる訳です。
 つまり、茶の湯は「政治的な時代の要請によって生み出され変質し、再び政治に活用された」ものであると考えられます。

 先に茶道があって利用されたのではない……ということを忘れてはならないと思います。