現在だと「切腹」といえば「殺された」と考えることが多いのですが、そもそも切腹とはなんでしょうか。
切腹は、平安時代末期の武士である、源為朝が最初に行ったとされています。
以後、武家の身の処断の仕方とされ、作法が確立していきます。
切腹を名誉とされるようになったのは、高松城の水攻め以後。秀吉が高松城を攻めた際、講和条件として城主・清水宗治の命を要求し、宗治は潔く切腹して果てます。その時の宗治の態度や切腹の際の作法が見事だったため、秀吉も感服し、それ以降、切腹が名誉ある行為という認識が広まりました。
関ヶ原でも家康は西軍の将に対し斬首刑を行っていますが、内通を疑われた者については、切腹を命じています。これは「腹を切ることによって潔白を証明せよ」という意味や「自らの行動の責任を取る」行為であるとされます。
これは武家の作法であり、武家は「命を惜しむな、名を惜しめ」の精神が強く、「死を賜る」ことは名誉とされていたことが前提にあります。つまり、罪を犯しても、切腹をすることで、ある意味赦免される(のちに家が再興を許される)ことを意味します。
利休は秀吉から死を賜ります。
切腹した訳ですが、利休は武家ではありません。
由緒書で、祖父を專阿弥という同朋衆に位置付けていますが、これは由緒書にのみ見えるものであり、千阿弥という阿弥号(時宗の物が好んだ法名)を持つ人物(旦那)であったことを意味するにすぎないという説が主流です。
父の代に納屋衆として名を連ねていますから、世間的な見方は武器商人です。
魚屋(ととや)というのは屋号であり、最初は海産物の取引から身を興したと考えられています。当時の海産物=海運は、広く朝鮮・明・琉球などとも交易があり、広い範囲の世界を渡っていたと考えられます。
その利休に切腹を申し渡す秀吉。
ここにこの問題を複雑にしているものが横たわります。
秀吉が単に「利休憎し」であったり、「殺したい」だけであれば、斬首刑で済んだはずであるはずです。利休の切腹に対しては助命嘆願だけではなく、切腹をさせないようにという「武家の特権を町人に冒させない」動きもあったと言われ、利休と対立する軸が秀吉ではない可能性を指摘するべきかと思います。
利休と対立していたのは、秀長歿後勢力を伸ばした奉行衆の一人である石田三成です。
官僚肌の三成は、清廉潔白を貫く心を持っていたといわれ、上杉家(直江兼続)と昵懇の仲であったのは有名です。ところが、武断派と言われる諸将は、清廉潔白だけで政治は行えないということを知っており、三成と対立します。
この武断派の諸将と昵懇なのが、利休です。
なんらかの陰謀があり、利休はそれに巻き込まれた形であったが、利休に死を賜ることで、秀吉は利休の名誉を守ろうと考えたのではないでしょうか。
清水宗治の切腹を褒めた秀吉、利休に切腹を申し付けた秀吉。
私は、利休をかばいきれなくなった秀吉は、利休が切腹することで、「利休の美」を完成させようとしたのではないか?とさえ思うのです。
一般に言われるように、「利休憎し」や「利休を妬んだ」というのは「秀吉に相応しくない」ような気がいたします。人たらし・人の才を愛する秀吉の利休への愛情を切腹に感じるのです。
そうでなければ、千家再興の後、秀吉に呼ばれた道安が御前で茶を点てたところ、秀吉は「宗易が手前によく似たる」と褒めたなどということが起こりえないような気がするのです。
切腹は、平安時代末期の武士である、源為朝が最初に行ったとされています。
以後、武家の身の処断の仕方とされ、作法が確立していきます。
切腹を名誉とされるようになったのは、高松城の水攻め以後。秀吉が高松城を攻めた際、講和条件として城主・清水宗治の命を要求し、宗治は潔く切腹して果てます。その時の宗治の態度や切腹の際の作法が見事だったため、秀吉も感服し、それ以降、切腹が名誉ある行為という認識が広まりました。
関ヶ原でも家康は西軍の将に対し斬首刑を行っていますが、内通を疑われた者については、切腹を命じています。これは「腹を切ることによって潔白を証明せよ」という意味や「自らの行動の責任を取る」行為であるとされます。
これは武家の作法であり、武家は「命を惜しむな、名を惜しめ」の精神が強く、「死を賜る」ことは名誉とされていたことが前提にあります。つまり、罪を犯しても、切腹をすることで、ある意味赦免される(のちに家が再興を許される)ことを意味します。
利休は秀吉から死を賜ります。
切腹した訳ですが、利休は武家ではありません。
由緒書で、祖父を專阿弥という同朋衆に位置付けていますが、これは由緒書にのみ見えるものであり、千阿弥という阿弥号(時宗の物が好んだ法名)を持つ人物(旦那)であったことを意味するにすぎないという説が主流です。
父の代に納屋衆として名を連ねていますから、世間的な見方は武器商人です。
魚屋(ととや)というのは屋号であり、最初は海産物の取引から身を興したと考えられています。当時の海産物=海運は、広く朝鮮・明・琉球などとも交易があり、広い範囲の世界を渡っていたと考えられます。
その利休に切腹を申し渡す秀吉。
ここにこの問題を複雑にしているものが横たわります。
秀吉が単に「利休憎し」であったり、「殺したい」だけであれば、斬首刑で済んだはずであるはずです。利休の切腹に対しては助命嘆願だけではなく、切腹をさせないようにという「武家の特権を町人に冒させない」動きもあったと言われ、利休と対立する軸が秀吉ではない可能性を指摘するべきかと思います。
利休と対立していたのは、秀長歿後勢力を伸ばした奉行衆の一人である石田三成です。
官僚肌の三成は、清廉潔白を貫く心を持っていたといわれ、上杉家(直江兼続)と昵懇の仲であったのは有名です。ところが、武断派と言われる諸将は、清廉潔白だけで政治は行えないということを知っており、三成と対立します。
この武断派の諸将と昵懇なのが、利休です。
なんらかの陰謀があり、利休はそれに巻き込まれた形であったが、利休に死を賜ることで、秀吉は利休の名誉を守ろうと考えたのではないでしょうか。
清水宗治の切腹を褒めた秀吉、利休に切腹を申し付けた秀吉。
私は、利休をかばいきれなくなった秀吉は、利休が切腹することで、「利休の美」を完成させようとしたのではないか?とさえ思うのです。
一般に言われるように、「利休憎し」や「利休を妬んだ」というのは「秀吉に相応しくない」ような気がいたします。人たらし・人の才を愛する秀吉の利休への愛情を切腹に感じるのです。
そうでなければ、千家再興の後、秀吉に呼ばれた道安が御前で茶を点てたところ、秀吉は「宗易が手前によく似たる」と褒めたなどということが起こりえないような気がするのです。