ネットサーフィンをしていて、たまたま行きあたったページに、「茶道を習っている人は、すぐに何流ですか?何先生につかれていらっしゃいますか?という聞き方をする」ということが書かれていました。
これ、多分よく聞かれるフレーズですね。
特に表千家(ご宗家)やお裏さんなどは、どなたから教授されているのかを、気にされているように思います。ウチは小さな流派なので、教授者に関心を示される方はあまりおいでになられませんが。
茶道というのは、「茶の道」であって、「茶の湯」ではないとすれば、実は流派というものは茶の湯に関わりのないことであるということになります。茶の湯というのは、抹茶文化全般を意味し、茶道というのはその中で「茶によって求道し修行すること」を言います。
この論法は白馬非馬説の論法ですが、実はこれは詭弁ではなく、「言葉の曖昧さを正す」ための論法なんですね。
っと、横道に逸れました。
つまり、私たち茶人(とその見習い)は、茶の湯をするにあたって、茶道というやり方で作法を修行しているにすぎず、茶の湯の場に出たら、流派というものは実は関係がないということなんです。
自流とちがうやり方だからダメと言うことはないですし、それぞれの流儀で考えられた規矩性と礼儀作法があり、大概無礼や失礼にあたるものはないです(というか礼には礼か無礼かしかないというのが礼法のありかたですので)。
そういう意味において、茶人同士が流儀を問いあうというのはあまり意味のないことですね。
以前、山田仙秀先生に似たようなことをいわれて「なんでだろうなぁ?」と思っていましたが腑に落ちました。
茶人同士は「好で付き合う」ものであり、茶人が話をする観点は「道具や花、設えであるべき」というのはとても納得できました。
そう考えると、而妙斎宗匠や猶有斎若宗匠のおっしゃる「どうでもいいことが違います」も納得です。流儀は流儀の中で通用するものであり、違うからと言って間違いであるということではないということだからです。根本にあるのは「礼」であり「無礼」や「失礼」でなく、かつ「規矩性」から逸脱していなければ、式法に優劣がある訳ではないのです。
今後は私も、流派を問わず、好みを問いたいと思います。
もちろん、問われればお答えしますよ(笑)
隠すいわれもないですし。
これ、多分よく聞かれるフレーズですね。
特に表千家(ご宗家)やお裏さんなどは、どなたから教授されているのかを、気にされているように思います。ウチは小さな流派なので、教授者に関心を示される方はあまりおいでになられませんが。
茶道というのは、「茶の道」であって、「茶の湯」ではないとすれば、実は流派というものは茶の湯に関わりのないことであるということになります。茶の湯というのは、抹茶文化全般を意味し、茶道というのはその中で「茶によって求道し修行すること」を言います。
この論法は白馬非馬説の論法ですが、実はこれは詭弁ではなく、「言葉の曖昧さを正す」ための論法なんですね。
っと、横道に逸れました。
つまり、私たち茶人(とその見習い)は、茶の湯をするにあたって、茶道というやり方で作法を修行しているにすぎず、茶の湯の場に出たら、流派というものは実は関係がないということなんです。
自流とちがうやり方だからダメと言うことはないですし、それぞれの流儀で考えられた規矩性と礼儀作法があり、大概無礼や失礼にあたるものはないです(というか礼には礼か無礼かしかないというのが礼法のありかたですので)。
そういう意味において、茶人同士が流儀を問いあうというのはあまり意味のないことですね。
以前、山田仙秀先生に似たようなことをいわれて「なんでだろうなぁ?」と思っていましたが腑に落ちました。
茶人同士は「好で付き合う」ものであり、茶人が話をする観点は「道具や花、設えであるべき」というのはとても納得できました。
そう考えると、而妙斎宗匠や猶有斎若宗匠のおっしゃる「どうでもいいことが違います」も納得です。流儀は流儀の中で通用するものであり、違うからと言って間違いであるということではないということだからです。根本にあるのは「礼」であり「無礼」や「失礼」でなく、かつ「規矩性」から逸脱していなければ、式法に優劣がある訳ではないのです。
今後は私も、流派を問わず、好みを問いたいと思います。
もちろん、問われればお答えしますよ(笑)
隠すいわれもないですし。