習いをばちりあくたぞと思へかし 書物は反古腰張りにせよ
今風に言うと書物は「ノート」や「参考書」。
反古とは反古紙のことで、「不要になった紙」や「書き損じた紙」のこと、腰張りとは「壁・ふすま・障子などの下部に張る紙」のことです。
つまり、習いというものは、書物にまとめて置くものではないということ。備忘録や教授用の指導要綱としての価値はあっても、そんなものに頼っていては修行をしたとはいえぬということになります。
これは茶人が「研究者」ではなく、「求道者」であることを意味している利休道歌であると私は考えています。
自分の考えを主張すると、何かと「それはどこの文献に載っていましたか?」とか「何の本を勉強されていますか?」ということを言う人がいますが、私は「何かの本だけを勉強することはありません」と答えます。
というのは、何らかの本というのは「著者の思想」が絶対にあり、その人の感性があって成り立つものであり、一つの見方にすぎないからです。
その奥にある合理に辿りつかなければ、全くの無意味であり、求道者である限り「何かに頼るのではなく、自分の中に柱を打ち立てるべきであり、納得できるものは取り入れる、納得できないものは打ち捨てる」のが好いと考えるからです。
南方録は「反面教師」として学ぶのがよいと考えます。
今風に言うと書物は「ノート」や「参考書」。
反古とは反古紙のことで、「不要になった紙」や「書き損じた紙」のこと、腰張りとは「壁・ふすま・障子などの下部に張る紙」のことです。
つまり、習いというものは、書物にまとめて置くものではないということ。備忘録や教授用の指導要綱としての価値はあっても、そんなものに頼っていては修行をしたとはいえぬということになります。
これは茶人が「研究者」ではなく、「求道者」であることを意味している利休道歌であると私は考えています。
自分の考えを主張すると、何かと「それはどこの文献に載っていましたか?」とか「何の本を勉強されていますか?」ということを言う人がいますが、私は「何かの本だけを勉強することはありません」と答えます。
というのは、何らかの本というのは「著者の思想」が絶対にあり、その人の感性があって成り立つものであり、一つの見方にすぎないからです。
その奥にある合理に辿りつかなければ、全くの無意味であり、求道者である限り「何かに頼るのではなく、自分の中に柱を打ち立てるべきであり、納得できるものは取り入れる、納得できないものは打ち捨てる」のが好いと考えるからです。
南方録は「反面教師」として学ぶのがよいと考えます。