一般に習い事の一つとされる「茶道」ですが、習うと学ぶという言葉をたてわけて用いることが最近増えました。

 では、習うと学ぶというのは何が違うのでしょう?

 学という字の正字は「學」。

 これは、「爻+𦥑+冖+子」の四つの漢字が合成された会意文字です。
 爻は「交わる・交差する・交流する」の意味があり、𦥑は「二つの手」を意味し、冖は「屋根のある建物」を、子は「弟子」を意味します。

 これを会意すると、師と弟子が対面し校舎の下で手を用いて交流する様子を表しています。即ち、師弟が向き合い、師が知識等を授け、弟子がそれを受取ることを意味します。


 習という字の正字は「羽」の部分が旧字の「羽」になった字です。
 これは「羽+白」の会意文字です。白は「曰」の変形文字になります。
 羽は「鳥の羽を二枚並べた」象形文字です。曰は「発語(発せられた言葉)」の意味ですが、それ以外に「行動」や「様子」といった意味もあります。

 これを会意すると、鳥が何度も羽を動かして羽ばたこうとする様子を表します。即ち、何度も繰り返してある行為などを身に着けようとする行為を意味します。


 そうすると、「学」は「知識」を会得すること、「習」は「稽古」によって式法を身に付けることを意味するということになります。

 茶道は量稽古と言われるほど同じ行為(式法=点前)を練習します。
 よって習い事と呼ばれている訳ですが、習うだけでよいのか?という疑問も生じます。

 当然習い続けることは大事です。
 一人稽古なども続けることで、より美しく自然に手が動くようにしていくことは生涯を通じて行わなければならないことではあります。

 しかし、人に教えるということは、「知識」も必要となります。
 茶道における規矩性の原点が合理であることは再三再四に亙って書かせていただきましたが、この規矩性を会得することこそ「学ぶ」ということなのではないでしょうか。

 それゆえに私は、今「茶道を学んでいる」という言い方をします。
 もちろん、師匠の所に「習いに通わせていただいている」訳ではありますが、それとは別に、式法=規矩性というものを試行錯誤しながらも、そこに潜む合理=理屈・理論を紐解いていきたい訳です。


 これは自分が「質問をするから」なのかもしれません。
 疑問に思ったことは常に問う。
 そうなると「問われた時のこと」を考えます。
 問われて答えられないことがないように、備えるということですね。
 茶道においては、不測の事態を想定しておくことが大事というのは「学ぶ」ときにも「習う」ときにも必要ということなのかな?と思ったりしています。