見立てを誤解している人がいるようなので、一度きちんと書いておこうと思います。


 見立てというのは、「道具として作られたものではないものを道具に見て用いる」ことではなく、「道具の景色をなにかに見て、物語を立てる」ことを言います。

 

 しかし、間違えて、「道具として作られたものではないものを道具に見て用いる」ことだと思っている人がほとんどです。

 そして、更に最近、ちらほら「道具がないから、ほかのもので代用しちゃおう!」と安易
に考える人を見かけます。しかし、これには細心の注意が必要ではないでしょうか。

 茶の湯として遊びで娯しむ分には、構わないと私も思います。
 ありあわせの道具で、らっくりゆったり娯しめばよいのです。
 これは、当流先代家元も仰せです。

 しかし、教授する側の人間が、稽古をつけるのにそれではいけません。


 また、教授される側も稽古として行うときに代用品で稽古してはなりません。

 例えば、帛紗の手を稽古したい(これは稽古というより練習かと思いますが)とか、柄杓の手を練習したいなどというのに道具がなければ、それは代用品でよいのです。もちろん、代用品でないに越したことはありませんが。

 ですが、点前を稽古する際は「位置関係と形・扱い」がありますから、環境と道具は最低限揃えておかねばならぬでしょう。これは「体で会得するべきものである」という道の概念において大切なことです。


 本来は、重みも大切なことですので、ベークの棗でなく、安物でもいいから木製棗がいいとは思いますが、ここは、まぁ、其々の考え方でよろしいかと思います。


 決してやってはいけないのは、「○○のつもりで扱って」という稽古です。


 これを続けていると「本物で行った時に姿が変わる」と感じます。
 実際、そういう稽古をしたことがあるのでなおさらいけないと感じました。

 そもそも、「見立てとは道具がないときに行うものではない」のです。


 心得のある人を招く茶席に、趣向を副えるため、「あえて定石を外して面白みを出すための遊び」です。代用品を考えるということではありません。


 槍鞘がないから、棒先や大脇差を用いるということと、蓋置がないから、その辺にあるもので代えるというのは全く意味が違います。

「稽古は型」を身に付けるものですから、正しい道具で行いましょう。

 自分で教える気があるのであれば、道具は安物でいいですからきちんと集めましょう。


 釜を掛ける際の作家ものや時代物のお道具は、あとから集めたり、師匠や蒐集家の友人から拝借させていただければよいのです。

 大事なのは「テーマ(掛軸)」に沿った道具立て。
 安易に見立ては行ってはならぬものなのです。