茶道の本来あるべき姿は「茶湯(ちゃのゆ)」です。
茶湯とは「誰でもができるもの」かというとそうではありません。
茶湯は書院茶から始まり草庵茶が生まれたように、将軍から始まり、豪商・大名らが愉しんだものです。それが江戸中期ごろに大衆化し、相伝の不完全さを危ぶんだ三千家によって家元制度が作られ、現代に続いています。千家以外の流派も家元制度を模倣し、石州流(※)以外は家元制度によって現在の組織が作られています。
この辺りの話は別の機会にするとして……。
茶湯は「志があれば誰でも愉しめるもの」ではありますが、「見ず知らずの人同士で愉しむものではない」ということも言えます。茶事の道具が五客を基本とし、数茶碗なども五客を基本としているのは、それが理由です。本来五名程度(正客、次客、詰めを含めて八名程度)が最適とされているのです。
また、現在は仕舞茶碗といって、別の茶盌で仕舞うことが普通ですが、これも本来は「お詰めの方に別の茶盌を出してそれで仕舞う」ことから仕舞茶盌とされます。亭主(点前をする人)は席中の相伴客の様子も把握しながら、全員にお茶が行きわたったところで仕舞うのが本来です。
大寄せでは省略するために、正客、次客が飲み終えたらお仕舞になりますが、本来はそうではありません。
数点て(員茶)という作法が七事式にありますが、これは、本来亭主が相伴客すべての茶を自ら点てることを言います。稽古用の式法に定める際に、飲んだ人が次の人の分を点てるという「廻り点員茶」ということになったようですが、本来は御茶事の最後、薄茶を終えた後に、ざっくばらんにお話をするときのものです。
当然、亭主と親しい者が集って行うのが茶事ですので、最後には亭主相伴といって、亭主も自ら点てた茶を飲むことになります(時間の都合で省略することもありますが)。
これらを修行するのが茶道であり、その茶道の発展のために生まれたのが「大寄席(大寄せ)」です。
何が言いたいかというと「大寄席」というのは、「茶道」ではあっても「茶湯」ではないということです。
あくまで、茶道の修行の途中に行われる「披露の場」であったり、「水屋修行の稽古の場」であるというのが現実です。
では、「茶湯」とはなんでしょうか。
それは「茶事」です。茶事を催してこそ茶人であり、本来は私など、まだ茶事をするための修行の身ですから茶人と名乗ってはいけないのでしょうね(一人で茶事ができるなら私もやりたいですが)。しかし、「茶湯」とは「茶道」を修めていないとやってはいけないものなのか?と問われれば「そんなことはない」というのが「本来」です。
ただし、マナーや目利き、知識、伝承といったものを受けていなければ、「道具を正しく扱ったり、作法通りに客に接することができない」ことも多く、客を愉しませることができないことも多いが故に、茶道という形で体系化されたのだと考えた方がいいでしょう。
忘れてはならないのは、茶道の始まりは「書院茶」であることと、それが「権威付けのためのもの」であったことと、それが「草庵茶」になって「精神世界の奥深さを愉しむもの」に変化したということです。
近年では茶事を見失い、大寄席を茶道と思う人が多い訳ですが、それは違います。
茶道の薄茶点前も濃茶点前もすべては「茶事の割稽古」なんです。
この茶事はなかなか行うことができない(道具も料理も大変ですからね)ものですが、私もいずれは月一回は茶事を、お茶会へ行こうとともにやりたいものです(本式の茶事ではなく、あくまで「お茶事へ行こう」としてですが)。
茶湯とは「誰でもができるもの」かというとそうではありません。
茶湯は書院茶から始まり草庵茶が生まれたように、将軍から始まり、豪商・大名らが愉しんだものです。それが江戸中期ごろに大衆化し、相伝の不完全さを危ぶんだ三千家によって家元制度が作られ、現代に続いています。千家以外の流派も家元制度を模倣し、石州流(※)以外は家元制度によって現在の組織が作られています。
この辺りの話は別の機会にするとして……。
茶湯は「志があれば誰でも愉しめるもの」ではありますが、「見ず知らずの人同士で愉しむものではない」ということも言えます。茶事の道具が五客を基本とし、数茶碗なども五客を基本としているのは、それが理由です。本来五名程度(正客、次客、詰めを含めて八名程度)が最適とされているのです。
また、現在は仕舞茶碗といって、別の茶盌で仕舞うことが普通ですが、これも本来は「お詰めの方に別の茶盌を出してそれで仕舞う」ことから仕舞茶盌とされます。亭主(点前をする人)は席中の相伴客の様子も把握しながら、全員にお茶が行きわたったところで仕舞うのが本来です。
大寄せでは省略するために、正客、次客が飲み終えたらお仕舞になりますが、本来はそうではありません。
数点て(員茶)という作法が七事式にありますが、これは、本来亭主が相伴客すべての茶を自ら点てることを言います。稽古用の式法に定める際に、飲んだ人が次の人の分を点てるという「廻り点員茶」ということになったようですが、本来は御茶事の最後、薄茶を終えた後に、ざっくばらんにお話をするときのものです。
当然、亭主と親しい者が集って行うのが茶事ですので、最後には亭主相伴といって、亭主も自ら点てた茶を飲むことになります(時間の都合で省略することもありますが)。
これらを修行するのが茶道であり、その茶道の発展のために生まれたのが「大寄席(大寄せ)」です。
何が言いたいかというと「大寄席」というのは、「茶道」ではあっても「茶湯」ではないということです。
あくまで、茶道の修行の途中に行われる「披露の場」であったり、「水屋修行の稽古の場」であるというのが現実です。
では、「茶湯」とはなんでしょうか。
それは「茶事」です。茶事を催してこそ茶人であり、本来は私など、まだ茶事をするための修行の身ですから茶人と名乗ってはいけないのでしょうね(一人で茶事ができるなら私もやりたいですが)。しかし、「茶湯」とは「茶道」を修めていないとやってはいけないものなのか?と問われれば「そんなことはない」というのが「本来」です。
ただし、マナーや目利き、知識、伝承といったものを受けていなければ、「道具を正しく扱ったり、作法通りに客に接することができない」ことも多く、客を愉しませることができないことも多いが故に、茶道という形で体系化されたのだと考えた方がいいでしょう。
忘れてはならないのは、茶道の始まりは「書院茶」であることと、それが「権威付けのためのもの」であったことと、それが「草庵茶」になって「精神世界の奥深さを愉しむもの」に変化したということです。
近年では茶事を見失い、大寄席を茶道と思う人が多い訳ですが、それは違います。
茶道の薄茶点前も濃茶点前もすべては「茶事の割稽古」なんです。
この茶事はなかなか行うことができない(道具も料理も大変ですからね)ものですが、私もいずれは月一回は茶事を、お茶会へ行こうとともにやりたいものです(本式の茶事ではなく、あくまで「お茶事へ行こう」としてですが)。