従来、千利休は武野紹鷗の弟子とされてきました。このこと自体が虚構であると考えられます。

 まず、二人の生歿年を並べてみましょう。

 千利休  大永二年 (一五二二)~ 天正十九年(一五九一)
 武野紹鷗 文亀二年 (一五〇二)~ 弘治元年 (一五五五)
 辻玄哉  生年不詳       ~ 天正四年 (一五七六)
 武野宗瓦 天文一九年(一五五〇)~ 慶長一九年(一六一四)

 千利休は十七歳で北向道陳に師事しています(天文七、一五三八)。ここから、千利休の茶道が始まります。こののち紹鷗が没するまでが十七年です。

 当然、道陳に師事して邁進していた時間が必要であり、そうなると問題は、いつ紹鴎に師事したか?です。

 普通、茶道の奥義に至るまで、二十年から三十年掛かると言われており、成人から始めて五十歳になることから、表千家では教授の下限を五十としています。

 後の事例からして利休は天才であったと考えても、最低でも十年は掛かったのではないでしょうか。となると、残り七年で紹鴎を師事したということになります。

 しかし、そうすると「山上宗二記」の小壺大事の継承に二十年掛かるという記述と矛盾します。つまり、紹鴎への師事はなかったということです。

 しかも、紹鴎が利休を教えたという記述が「山上宗二記」や「茶話指月集」にはありません。

 逆に、利休に目利きや台子、小壺大事を相伝したのは辻玄哉であることが記述されています。

 当時は「完全相伝」であり、現在のように家元制度がある訳ではありません(似たような流れはあり、利休は紹鷗の子宗瓦を若宗匠として扱っている)ので、紹鴎歿後は宗瓦はまだ幼少であるため、辻玄哉が堺流の本宗となり、紹鴎門下をまとめたと考えられます。

 この頃、道陳に「武野紹鷗流を紹介された」とする方が無理がありません。

 現在の家元制度でいえば、辻玄哉は、宗瓦が成人するまでの間、堺流を支えた脇宗匠ということになるでしょうか。

 しかし、成人した宗瓦が義兄今井宗久と家財継承の争いを起こし敗訴し、本願寺への信仰から信長・秀吉と対立して流浪したため、家元として流派を成すことができず、辻玄哉は松尾流の流祖となり、千利休は千家流の流祖となっていったのではないでしょうか。

 先日来、歴史を改めて検証してみると、珠光と紹鴎、紹鴎と利休が絡む事績はほとんどが虚構であり、茶の開祖は中尾真能(能阿弥)であり、侘茶は村田珠光が起こし、村田宗珠が完成させ、十四屋宗伍を通じて武野紹鷗に伝わり、辻玄哉が利休に相伝したとなります。しかも、武野紹鷗の茶は実は「書院茶」であったとも言われます。

 一般に知られていない事実はこうであった……という歴史研究家の答えを以て、神聖化されすぎた利休の実像をもう一度見直すことで、あらためて利休の凄さが見えてくると思います。