「道具にはそれぞれ意味と意義があり、安易に知りもしないで略したり替えたりしてはならない」と考える私と、「道具なんて何でもいいじゃない!」という宗靜先生。

宗靜先生は私を「堅苦しい、押し付けだ!」と批難する。「それは茶人にあるまじき振る舞いだ」と。

本当にそうでしょうか。
私は自分に正しさを課すのであり、作法はこうですというのであり、だが、それを超えて気軽に気楽にすべきだと考える。

客が何も知らなければ、無礼にならぬ様教える。
しかし、こちらはきちんとしておく。きちんとしなければ、それは無礼に通ず。

押し付けるのではなく、もてなされる側が気がつかない人や心得のない人でも、心配りをして、作法や式法に則って執り行い、その上で、愉しんで貰うのが、亭主の務めではないのか?と考えます。わからないから、気がつかないからというのは、客をバカにしているということではないでしょうか?

箸一つ、満足に揃えられぬなら、懐石を開く資格はない。その箸の意味も知らずに替えて良い筈がない。

仏法でも、知の罪より無知の罪は重いと説く。

道具にせよ、点前にせよ、究めていない者は、教えに忠実たるべきではないでしょうか。
究めてこそ初めて略せる。

私は間違っているのでしょうか。



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