足利義持の嗣子・義量が亡くなると、義持は後嗣を立てず、権力を握り政権を運営した。義持自身は有能であり組織自体も盤石であったため問題はなかったが、義持が後継者を指名せず歿してしまったことで、権力闘争の因を作った。

 籤引きで青蓮院の門主であった義教が指名されたが、幼少であったため、元服後に将軍となることが決まった。これは朝廷が無位無官の昇殿や将軍就任を嫌ったためである(還俗後は無位無官となる)。義教は義満の三男で、義持の同母弟。この間、将軍職は空位となったが、管領によって政治的空白は埋められた。これによって、将軍権力は管領が差配することとなる。

 しかし、還俗ののち、将軍に就くまでの間に政治改革を志した義教は、将軍になると軍制改革や将軍親政を行い、幕府の威信回復に努めた。悪御所と綽名されるほど、苛烈で厳しい処断を行ったと言われるが、茶湯に興味を示し、同朋衆に茶湯を仕切らせている。これは、茶の湯を幕府の権威付に利用しようと考えたと言われる。

 義教が将軍となってから病を得た際、後花園天皇より御茶とともに鎌倉茄子・花山天目・青瓷雲龍水指の三種が下賜され、義教本復後の祝儀饗応の際、三種を飾り付け天皇に献茶したことが記録に残されている。これが「三種極真の飾り」で、のちの台子点前の原型となった。義教には、同朋衆として中尾真能(能阿弥)が仕えており、義教が天皇に献茶した台子の茶事において、点前をしたのは、烏帽子・水干を来た能阿弥門下の赤松貞村である。貞村は義教に寵愛され、のち嘉吉の乱の原因となった。

 室町中期に入って、貴族(公家)の建築様式であった書院造が、住宅として普及しはじめ、会所などで催されていた茶会が書院の広間で行われるようになり、大名同士で茶会などが開催されるようになる。これは、義教の子・義政が、政治的混乱を余所に文化芸能に傾倒したことが影響したと考えられる。

 特に茶湯への造詣は深く、台子点前も「真・行・草」の三段があるという凝りようであったという。

 この台子点前の式法は能阿弥が、それまでバラバラだった点前を統一し書院荘や台子飾を定め、小笠原流礼法を参酌して作法を作った。このことから茶道の祖は能阿弥であると言える。

 能阿弥の教えは、「東山流」と呼ばれ、大名から町人まで広まり、一世を風靡した。

 東山流の台子点前は、能阿弥から島右京(空海)、北向道陳を経て千利休に伝わった。
 しかし、庇護していた足利将軍の権威が失墜し、東山流の茶は絶えた。