茶道は、日本で生まれ、日本で独自に発達したものです。

 室町時代に中尾真能によって点茶式法や作法、道具の扱いなどが制定されました。これが茶道の開祖です。

 それまでは、特に定められた点茶式法はなく、支那より伝えられた点て方だけが禅寺を中心に広まっていました。

 茶は、唐の陸羽が著した『茶経』が、遣唐使によって喫茶法とともに伝わります。

 八世紀から九世紀初頭に書かれた『茶経』がさほど時を置かず日本に渡来したのには理由があり、当時は遣唐使などによって日支交流が盛んであったことが背景にあります。

 特に、禅僧の渡航と渡来がしばしばあり、朝鮮半島の新羅と対立していた日本は半島ルートではなく、黄海を直接渡るルートによって直接交流があったことは特筆すべき点です。

 このころの茶は「団茶」と呼ばれ、茶葉を団子状にした半発酵の烏龍茶に似たもので、現在茶色というとブラウンを指す由来となっています。

 茶は高級品であり、かつ薬として珍重されたが、栽培などが行われなかったため、喫茶の習慣には至らず、廃れてしまいます。支那ではこの団茶の手法が現在でも残っており、花茶として親しまれています。

 鎌倉時代になって、日本に禅宗を伝えた栄西や道元によって再度持ち込まれたのが抹茶で、やはり薬としての効能を主としていました。

 実際には宋との貿易が平安末期に行われていた記録があり、この当時薬として入ってきている可能性はありますが、公式には建久二年(一一九一)、二度目の入宋から帰国した栄西が、抹茶式茶湯趣味を伝えたと記録されています。

 さらに、建保二年(一二四一)、実朝が病臥した際に、『喫茶養生記』二巻と良薬の茶を献上した(『吾妻鏡』)ことが知られています。

 当時の点茶法は、抹茶に湯を注ぎ、茶筅で軽く掻き混ぜるだけであり、今日のように練ったり点てたりという点茶法ではありません。

 こののち、栄西より茶種五粒の入った柿形茶壺を下賜された明恵は、薬用としての効能よりも、眠気覚ましに用い、喫茶を習慣化しました。

 碾茶は団茶に比べて持ち運びに便利であったことと、茶葉ではなく種によって栽培が可能であったことが伝播のきっかけであったと考えられています。

 碾茶は、現在よく知られる玉露と同様、被覆して育成した茶葉を蒸し、碾茶炉で乾燥して製造します。煎茶のように茶葉を揉む工程がないため、形状は青海苔に似ている(玉露は碾茶の製法で作られた煎茶の一種)と言われます。

 抹茶とは、碾茶を石臼で碾(ひ)いて粉末状(抹)にしたもので、茶葉の保存は、初夏に茶壺(葉茶壺)へ詰めて寝かせて行います。これを、旧暦十月の上亥の日に口切の茶事にて開きます(現在は茶壺に詰めるのは口切の茶事を行うためであり、本末転倒している)。碾茶の「碾」とは「石臼で平たく展(の)べる」の意。

 鎌倉後期になると、禅寺が全国に伝播し、各地で茶樹の栽培がおこなわれるようになりました。しかし、その品質には産地間で大きな差があり、最高級とされたのは、京都郊外の栂尾で、特に「本茶」と呼ばれ、栂尾茶以外は「非茶」とされ、区別された。伝播の要因としては、栄西・明恵らが、求道の精神において茶を用いたのに対し、叡尊・忍性らは慈善救済の方便として用い、茶を庶民に振る舞ったことから、大衆への広まりをみせます。

 この頃、宋で「闘水」という「水を当てる」遊戯から発展した「闘茶」が輸入され、武家を中心に流行していきます。

 これは、歌合せや絵合せなどの社交的遊戯が素地となり、茶合せという遊戯として定着したと考えられます。闘茶の後は宴会となり、現在の茶道のような芸術的会合とは一線を画するものでした。

 鎌倉末期から南北朝・室町初期に闘茶は最盛期を迎えました。

 闘茶も流行によって複雑化しましたが、最も広まったのは「四種十服茶」です。

 これは、四種類の茶を十服点てて飲み比べ、本茶を言い当てた数を競います。

 加えて、大名の間で、支那渡来の唐物茶道具を蒐集することが流行し(唐物数奇)、盛大な闘茶会や宴会が催されました。佐々木道誉などの「婆沙羅大名」らによって莫大な賞金賞品を賭けた「百服茶」なども行われている。

 闘茶全盛の最中、応永元年(一三九四)に足利義満が子・義持に将軍職を譲ると、洛外の北山に別邸を建築し幽棲します。これによって北山文化が起こり、このことは茶湯にも影響しました。寝殿造りの邸宅から書院のある邸宅が増えていくのです。そして、徐々に闘茶会ではない、茶会が開かれるようになっていくのです。

 北山文化は寝殿造の荘厳華麗な外観に対して、内に潜む清淡な気風と時代精神が横溢しており、そこで営まれた文化的生活の水準の高さを象徴しています。

 義満も唐物を蒐集しており、それらはのちの東山御物において重きをなしています。

 また、この時期、宇治茶の品質が向上し、栂尾茶と並んで本茶に数えられるようになり、献上された宇治茶を義満が褒め、「無上」という銘を贈りました。

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