真・行・草とは、書体の名前にもなっていることから解るとおり、格式のことを表します。

 東晋時代に書道の基礎を作った王羲之は、古代の篆書(てんしょ)、隷書(れいしょ)に対して真(楷書)・行・草の三書体を確立したといわれています。
 篆書や隷書はこの真・行・草の外にあるものだという考え方もできます。

 やがて格式が高く整った真、その対極に位置する破格の草、両者の中間に位置する行というイメージが様々なジャンルでも応用されるようになりました。特に絵画表現、庭や建築のデザインなどに用いられることが多く、また茶の世界でも同様です。

 茶道における真とは【書院茶】のことであり、草とは【草庵茶】のことであり、その中間に位置する行とは台子から発展した棚物といえるかと思います(これは私見です)。

 棚物は【書院】から発展し、【草庵】に至るまでの崩しである…というのが私の考え方です。
 もちろん後の世になってからできた棚もありますが、それは利休の教えである「先人・他人と違うことをせよ」ということを実践した結果であると思えるからです。

 支那では真・行・草の格式はそのまま真が最も良いとされていますが、日本では逆転現象がおきています。
 特に不完全の美ともいうべき「侘び」「冷え枯れる」といった美意識が注目され、真の格をやつし、くずすことによって、より精神性の高い「侘び」の極地に至ろうとする思想が支配的になりました。

 茶の湯では東山文化の【書院】茶を真とし、儀典ではその形式に従いつつも、侘び【草庵】茶を理想としています。また、【書院】茶から侘び唐物の茶の世界を作り上げた村田珠光およびその後継者である村田宗珠・武野紹鷗が行とすれば、侘数寄を追求した千利休が草といえると思います。



【書院】は、基本的に真台子を基本とし、唐銅を真とします。
茶は濃茶を真とし、茶入も唐物を真とします。
ここには「格」というよりも【箔】というものが支配している世界であるというのが私の見方です。
現代ではその中でも皆具が最も格の高いものと考えられています。
【統一美】という至高の表現でもあるでしょう。

また、【鎖の間】という利休が排した【草庵】と【書院】をつなぐ「行」があります。

武野紹鷗の時代にはあったもので、利休が侘数寄を追究し、ストイックなまでの精神性を顕現するに対して、その後継者たる古織はこれを復活させ「気楽な場」としていきます。


これがのちの囲炉裏です。

真ほど格式高くなく、草ほど侘びに徹してもいない行にこそ、古織は自分の考える茶湯が顕現できると考えたのではないでしょうか。

ですが、「真」には「茶湯」の精神ではなく「格式にこだわる世俗の匂い」が付きまといます。
私は、唐銅が好きですが、それはその格ではなく、銅の枯れ具合に良さを見出すのです。

余談ですが、緑青は毒性があると信じられていますが、実は毒性はなく、逆に銅の保護になるのだそうで、綺麗に磨きすぎて寂びていかない趣は、「真」には相応しいかもしれませんが、かえってわざとらしすぎるきらいがあり、自然と錆びた雰囲気がある方が、私好みです。
古銅の色合いに緑が映える姿は、何とはなしに、心躍るのは私が緑好きだからかもしれません。

この真行草は、道具にもあり、茶杓であれば、節なしを真、止め節を行、それ以外を草とします。がこれは後世の付会で、淡々斎以後、多くの流派で受け容れられたようです。

茶盌であれば「天目形+天目茶碗」を「真」とし、唐物およびその写しの和陶はそれに次ぐ「行」、それ以外の茶盌は「草」となります。

もちろん、真行草のそれぞれに「真の真」「真の行」「真の草」というように九つに分類されます。
この辺りは、口伝によるものもあり、流派によって様々です。
荘りによっても格が変わり、組み合わせ方も様々です。

道具立てというのも体系化されているのですが、これは「見立て」や「主題」というものがあり、必ずしも同じに伝わることがない「感性と知識の融合」といえるのではないでしょうか。