【用の美】【不用の用】そして【無用の用】に共通するキーワードは【遊び心】である。

匠の技と用を邪魔しない遊び心が合間って【用の美】を現出するように、取り合わせの妙というまさに遊び心で【不用の用】が格を高めている。

では、【無用の用】はどうなのか。

私は利休の目指した侘びが、実は息苦しいと感じる。
二畳敷きや台目、一切を排除し、客に露骨なまでに茶の世界だけを要求するーー禅の世界観を強調し過ぎた嫌いがある。

これは華美を極めた秀吉の茶があって始めて調和をなすと思うのだが、侘びの究極ともいえる丿貫ももう一つの対極であったのではないだろうか。

 


茶湯を権勢の箔とした秀吉、あるがままの侘びを愛した丿貫、至高のものへと昇華させようとした利休。

これは完全相伝の中で、次代は常に創意工夫をし、各人が個性ある茶湯を目指せーー「人と違うことをせよ」という教えそのものである。

古織は茶風をへうげものと評される。ふざけた筆致の絵付や歪み茶盌など作為の無作為によって、新しい価値を生み出した人物でだ。

利休が無用と排したものを復古せずに、異なる形で付加したのである。

これが茶湯におかしみーー笑いや乙をもたらした。

これはまさに【無用の用】の遊び心である。息苦しくなり過ぎた利休の理想に、へうげによって息抜きともいうべき笑いを与え、茶湯の奥深さを拓いてみせたのではなかろうか。

古織の【無用の用】は利休も認め、さらに利休の茶湯を広げる一助になったというのは穿ちすぎというものだろうか。

茶湯における無用の用とは、そう言うものであると、私は思う。