茶道における【不用の用】とは

「無用の用」というのが老子や荘子にある。
それは「一見役に立たないと思われているものが、実際は大きな役割を果たしているということ」という意味だ。

浅はかな考えで「無用」とされるものが「実は目に見えぬ働きや役割、重要な意味を持っている」ということである。

不用の用ともいうと言われている。
しかし、私は「不用の用」と「無用の用」というのは、少し違うと思う。
そもそも「不用」と「無用」はニュアンスが違うからだ。

「用が無いと考えられるものの用」と「用いない(もちいず)ものの用」とでは大きな差がある。

では、「用いないものの用」=「不用の用」とはどういうものなのか。

利休は【草庵】に重きを置いて【鎖の間】を排したほどで(古織が復古させているが)、どちらかというと「無駄」「華美」「装飾」を排除した人である。

そこに着目すれば「用いないということの用」、それは「使う場所を限ることによって、その価値を高める」ということではないかと思うのだ。

唐銅を真のものとして、格付けすることで、草庵点てにおける和陶(国焼)の活躍の場を増やしたり、漆を棗に使い、棚を木地にすることで、棗を濃茶でも使えるような格へと昇らせるなど。

それこそが「不用の用」なのではないかと。

何でもかんでも真塗ばかりにするものではない…ということ。
これは今風に言えば「TPOに合わせる」ということではないか。

用いないことによってその価値を高める。それこそが茶道における「不用の用」である気がするのだ。

だが、それは「統一美」という対極があってこその美であり、書院点てにおける「皆具の統一感の重厚さ」というものもまた、それは「普段に行わない」からこその、武家社会などにおける格付けや、付き合いの中での秩序というものを茶の湯の矛盾ともいえる柱として大事にしたのではないだろうか。

利休は「不用の用」と「用の美」によって独特の世界観を現出した。
それが故に傑出した不世出の人物であったと言える。

ただし、彼は「プロダクトデザイン」に固執するあまり「創造」はできなかった。
古田織部が傑出していたのは、利休が省きに省いた「侘び」に「ひょうげる」という創造を乗せ直し「創造」したことによる。

この古田織部の「創造」こそが「用の美」を兼ね備えた「無用の用」となっていると私には思える。