私は偏狭な人間なのでずっと自分中心で物事を考えてきた。

将来何になろう? 自分の本当にやりたいことは何なのか? 自分はどう生きるべきか? などなど、それなりに真面目に考えながら生きてきた。だけど、全部、「自分」のことだ。自分=男であって、女のことなど考えていなかった。

 

 

 

 

高校時代まで第二の波の教育の①時間厳守、②上の者に服従、③単調な作業に慣れる、という隠れたカリキュラムに内面反発しながら、高校を卒業した途端にタガが外れて「自由」を満喫した。それは就職するまでのモラトリアム(執行猶予期間」であったのだけど。

 

だけど、考えてみたら、女はどうだ? それまでは

・男が女の生活を支える

・男が外で働き、女は家事をする

・女は寿退社をして、子供を産み育てる

・女の夢はいい人のお嫁さんになること

・女は可愛らしいのがいい

 

 

 

 

 

そんな時代だった。それがこの40年くらいで大きく変わった。

・女も男と同じように外で働く

・女も男から経済的に独立して生きる

・女も結婚しても、会社を辞めない

・女も若く美しくいたいけど、それは自分のため

・主婦になることだけが女の目指すものではない

 

だからこそ、女にとって、「将来は何になればいいのか」という新たな課題が登場しているわけだ。一生懸命勉強して、東大を目指すのか。医者、弁護士、会計士を目指すのか。代議士、国会議員、大臣、知事を目指すのか。大企業に入社して、出世を目指すのか。アスリートとして、世界のトップを目指すのか。金を稼ぎ、結婚せず、子供も作らず、豪華なマンション暮らしを目指すのか。世界旅行を目指すのか。

 

 

 

 

 

それとも、一生懸命に勉強し働き、世のため人のために活動するのか。世界平和を目指すのか。恵まれない人々を支援するのか。環境保護を推進するのか。研究者として、科学の進歩に貢献するのか。ノーベル賞受賞を目指すのか。

 

女にも「自由」が与えられ、チャンスが与えられた。その気になれば、男と同様になんにでもなれる。才能と努力と運次第だ。そういう立場に立った女たちは、今、どうしようとしているのか。

 

才能もあり、努力もできて、勉強もできて、お金を稼げる女はいい。しかし、体も弱く、勉強もできず、容姿もいまいちな女はどうすればいいのか。福沢諭吉のように「人は生まれ育ちではない。学問があなたの将来を決めるのです」と言われても、困ってしまう人もいるはずだ。

 

 

 

 

ハリウッド映画では19世紀の時代背景のものでも黒人が白人と同様に活躍していたりする。教育も受けていなかったのになぜか聡明だったりする。日本のNHKの朝ドラでも、主人公は女で、聡明で意志が強く、性格も良く、夢をもって邁進する。その時代、そんなことはものすごく大変だっただろうに。極めて例外的な人物、もしくはありえない人を描いているのかもしれない。

 

令和の今、女たちに与えられた環境は、明治から昭和初期に比べれば、ずっと恵まれている。さあ、貴女は自由です!好きな者になれますよ、すべては貴女次第です。と。

 

それはベルリンの壁崩壊後の旧東ドイツの人々と同じように、嬉しい状況ではあるものの、戸惑ってしまうのでは。しかも、「好きなことをやっていい」「好きな者になれる」と言われながらも出産と子育てという大きな仕事は依然として女に押し付けられているわけで、その結果として、

・結婚しなくなった

・子供を作らなくなった

 

それが少子化に繋がっているのではないか。

 

 

 

 

 

自分の人生は自分で選べるのです!

と言われても困るのがマジョリティではないか。

 

ライ麦畑のホールデン・コールフィールドは少年だった。今の時代、少女版ホールデンがたくさんいても不思議ではない。数々の世の中の矛盾、社会的な見えない壁。

 

女性のアイデンティティの確立こそ、現代的な課題ではないか。

 

 

などと、ふと考えた月曜日です。

過渡期なのかもしれませんね。