図書館で借りて、日高敏隆の『人はどうして老いるのか』(2017)を読了しました。著者は東大卒の理学博士で、動物行動学者。とても読みやすく、面白かった。非常に頭のいい人が、難しいことをわかりやすく書いた本(エッセイ)と言える。

 

どうして人は(動物は)、成長すると異性を見つけて恋に落ち、セックス(交尾)して、子供を作って、大事に育てるのか。どうして、子供をかわいいと思うのだろうか。孫の顔を見るとどうして幸せに感じるのだろうか。

 

どうして、人は衣食住を求めて働くのか。住む家を求め、毎日美味しい食べ物を求め、衣服を着る。人種に関わらず、皆、一生懸命生きている。

 

どうして?

 

結論的に書いてしまうと元も子もないのだけど、彼が言うのは、遺伝子によるプログラムのせいだと。本能とはちょっと違う。我々の体は過去から未来へとつなぐ遺伝子の運び屋(キャリア)に過ぎない。自分の種、自分の部族、そして、自分自身が生き抜いて、子孫を残すように遺伝子によってプログラムされている。

 

この「プログラム」は行って見れば、「一太郎」や「エクセル」のようなもので、プログラムが一緒だからと言って、結果(人生)が同じになるわけではない。ただ、大まかなプログラムは、そうやって、成長し、恋をして、セックスして、子供を作り、育て、というようにできている。

 

やがて、子供Aは成長して大きくなり、その子供Aがまた子供B(孫)を作る。そのときには、子供Aの親は既にそれなりに加齢している。45歳くらいかもしれない。45歳はまだ子供がなんとか作れる歳かもしれない。それは、子供がもし、途中で死んでしまったときなど、再挑戦できるようにまだ生殖能力を残しているのだ。しかし、60歳を越えていくと、もう再チャレンジは結構です、となる。だから生殖能力も大幅に衰えていく。

 

人間以外の動物に老いた動物・昆虫がいないのは、老いる前に死ぬか、他の動物に食べられてしまうから。人間だけが、なかなか死なず、生殖能力を失っても生きていく。それを人は「老い」と言う。

 

これらはすべて遺伝子プログラムのなせるわざである、ということ。

 

私が書くと、「な~んだ」となるかもしれませんが、日高さんの軽妙な文章を読んで行くと楽しく、知的に学べます。

 

これはかなり余談的な話ですが、

英国の動物学者デズモンド・モリス(1928-)の『年齢の本』には、年齢によるいろいろな話が書かれているらしいのだけど、例えば50歳。

 

「今日は、あなたの五十回目の誕生日ですね。お祝いしましょうか? 五十歳は男にとってよい年ですからね。女が”イエス”といったら喜べるし、”ノー”といわれたらほっとしますから」

 

「六十歳になると、人々は家庭を愛するようになる。しかし多くの人々はまだ、内心では若いと感じている。けれど体の方は必ずしもその感覚についていけない」

 

「71歳になると人は自分の年を自慢し始める」

72歳は「分別の年齢」

74歳は「老齢であることを軽蔑する年配者の年」

75歳は「本格的な老衰期」

76歳は「欲しいものが少なくなっていることに気づく年齢」

77歳は「教条主義的な年齢」

78歳は「昼が次第に短くなっていくように思われる年」

 

80歳は「もろさの年齢」

81歳は「回想の年齢」

83歳は「物事がこれまでどおりいかないと感じるようになる年」

85歳は「静観の年」

 

いずれにせよ、人間には年齢、年代によってある程度の共通の遺伝的プログラムがある。しかし、と言う。「規則には必ず例外がある」と。その例外は、人間の生活の多様性による。その結果、ある年齢ですごい成功を収めた人もいれば、ひどい不幸に陥る人もいる。だから、遺伝的なプログラムがあるからと言って、初めから運命が決まっているわけではない、と。

 

そして、このプログラムにのって、自分の人生を1つのお芝居と考え、自分はその主役として、楽しいお芝居にしていきましょう。シナリオはある程度決まっていて、最後は「死ぬ」ということになりますが、その前は退屈するようなお芝居ではなく、人間らしく喜怒哀楽を込めて生きましょう、と。