第四子も第三子から2年半で生まれてきた。第三子より2学年下になる。第四子が生まれた2008年は、危機元年であった。

2014年、日本創成会議で増田寛也氏が2040年までに消滅可能性のある自治体リストを発表し、日本中が騒然となった。ほぼ半数の市町村が該当したからだ。わが南山城村は栄誉ある?17位であった。京都府内では1位だ。増田レポートには批判も多いが、理にかなっていると思う。批判が多いのは、それだけ衝撃的だったということかもしれない。

増田レポートは、子を産む母親(20-39歳の女性)の数に着目している。他のことはおいといて、シンプルに考えている。この世代の女性がすべて子を産むわけではないが、この世代以外の女性が子を産む可能性は著しく小さい。ましてや男性が子を産むことはない。出産世代の女性が減れば、シンプルに子どもが減る。

増田レポートは2014年だが、じつは2008年に私は童仙房が危機に瀕していることを理解した。出産世代の女性がゼロに近づいていたからだ。そのときにはまだ少数ながら子どもがいた。わが家だけで4人もいたし。4人というと、童仙房内の中学生以下の子どもの数の2~3割に相当するのだが。20人弱の子どもがいれば、その時点で消滅は見えない。でも、出産世代の女性が激減していた。

目の前を見ていては消滅は見えない。しかし、目の前の状況から未来を推察すれば、消滅は明らかだった。今後、出産世代の女性が増える見通しはきわめて厳しかった。少々増えたところで、大勢に影響はない。2008年時点で、消滅不可避となる不可逆的デッドラインを超えたかどうか微妙だった。この時点で、地域の方々は消滅を意識していなかったと思う。

そして、そのころ同時に、村の中で仕事が激減した。近隣の経済が凍り付いた。2008年はリーマンショックが襲った年だが、ここではあまり関係ない。2000年ごろから目に見えて衰退し始め、年とともに加速していった。2008年は通過点だった。村人として生き、近場の経済で生きてきたわが家は、死活問題と認識した。このままでは行き詰まる。

都会へ移って会社勤めすることも検討した。そうなれば、ホームスクーリングは無理なので、子どもたちは学校へ行く。私の年齢的にタイムリミットが近かっただろう。

家族で話し合った。私としては、田舎で生きる道はなさそうに見えた。今ならギリギリ間に合うのではないか。今を逃せば、田舎から脱出する可能性が閉ざされるか、きわめて困難になっていくのではないか。今、脱出すべきではないか。父親として、家族を守る選択は、脱出に傾いていた。

第一子と第二子が、脱出に強硬に反対した。泣きじゃくりながら反対した。ホームスクーリングをやめることにも反対した。少々の反対があっても脱出を決断しようと考えていた私は、進退きわまった。こまった・・・

童仙房に残ってやっていく道があるのか? できるのか、おまえに?

よくよく話し合って、もう少し童仙房で粘ってみようと思った。地元の経済の中でできることは、もうない。インターネットを使った何か。いくつかのことに挑戦した。家計が困窮した。最悪の時にどうするか、といつも考えるようになった。

うまくいきそうなものもあったが、インターネット上のビジネスは肌に合わない。うまくいったとしても耐えられないほど苦痛だった。2011年暮れ、妻と話し合って、インターネットビジネスから完全撤退することにした。すると、もうなにも、仕事らしきものが残らない。そこで立案したのが、わらしべちょうじゃ作戦だ。2012年正月以降、何が出てこようと、何がめぐってこようと、なんであろうとかんであろうと、最初にであったチャンスをつかむ。それを天命と信じて、全力を尽くしてみる。わらしべちょうじゃのお話では、それが1本のわらなのだ。たとえ1本のわらであっても、しっかりつかむ。

ギャンブルのような人生を生きるということは、どたんばでこんなバカげた行動に出るものである。で、またそれがなんとかなるのであるから不思議だ。

正月あけてすぐ、童仙房に来る以前勤めていた会社の社長から電話があり、在宅の仕事をすることとなった。手段としてインターネットも使うが、ネットビジネスではない。最初は仕事が少なく、家計の危機がどたんばまで行ったが、2年ほど経過すると、まあなんとか暮らしていけるようになった。

さて、一連の危機時代は、第四子が生まれてから5年間ほどに相当する。ということは・・・

 

 

 

第三子も第二子から2年半あけて生まれてきた。第二子とは2学年ちがう。第三子が生まれてくるころには、昔話の重要さを強く認識しており、読み聞かせは昔話に特化していた。たまに、昔話以外の、三世代伝わる絵本も読んだ。

同じ読み聞かせをしているようでも、第一子と第二子では内容が違う。第二子と第三子でも内容が違う。とうぜん、第三子の昔話に特化した読み聞かせがハイクオリティだ。第一子、第二子には親の至らなさをお詫びするしかない。愛情は変わらなくとも、差ができてしまう。

第三子は言葉も早かった。早すぎるかも知れない。2歳過ぎには、単語でなく文を話していた。あるとき、「だっこして」と言ってきたのに対して、「今仕事中だから、あとでね」と私が言ったら、「あーあ、パパは○○のこときらいなのか」と第三子が言ったのでびっくりして「そんなことないよ」って抱っこしたら、第三子はペロッと舌を出していた。2歳3カ月のことである。

何度も言うが、早いのがよいわけではない。とはいっても、第三子の知性の成長ぶりは驚くほど早かった。幼い頃から「勉強大好き!」といつも言っていた。計算をするのが趣味だったかもしれない。小学生になるころには、九九を完全にマスターし、2年生あたりの計算は楽にこなしていた。漢字も早かった。本を読むのもすごいペースだった。

小学生になって、『自由自在』は軽々とこなした。書き写しも小学生になるずっと前から、毎日1枚ずつ、楽しんでやっていた。

ペーパークラフトも大好きで、非常に細かいものをたくさん作った。第三子が自分のパソコンを使いインターネットで探して、厚紙を数十枚印刷する。そうやって恐竜をたくさんつくた。天井がジュラシックパークになってしまった。恐竜以外のものもたくさん作った。しつこいけど、わが家は道具と材料は無制限だ。

読書量もすさまじい。小学生のうちから、平均的な大人がなかなか読めそうにない本をふつうに読んでいた。分厚い本も平気だ。学校に行っている子がこれだけたくさん読むのは絶対に不可能だ。あきらかに第一子よりも第二子よりも大量に読んでいる。

短編、長編の小説もよく書く。夏休みに3枚ほどの読書感想文が宿題に出て呻吟する子が少なくないが、第三子は300枚でも平気だ。

それでいて、インドア派でなくどちらかというとアウトドア派だ。山や滝の冒険・探検は大好き。畑作業もよくやる。長時間、長距離を歩くのも楽しいらしい。

小学生低学年あたりではDVDも見ていたし、ゲームもやっていたが、小学生高学年ごろからはテレビ、ゲームはほぼ見向きもしなくなった。

中学生ではさらに学力に磨きがかかる。第一子、第二子のようなブランクやスランプがまったくない。学校に行っている子は毎日6時間の授業があるだろう。第三子の勉強時間はもっと短い。勉強ができる子は塾や自宅学習にも多くの時間をさくだろう。そういう子と比べれば第三子の勉強時間はうんと短い。独学ができるようになると、先生から習うよりも短い時間でたくさんのことができる。

高校進学はしないが中3で模試をたくさん受けた。その成績には驚くしかない。京都大学に現役合格した私が中3だった頃の成績より明らかに(というか大きく)上回っている。易しめの模試だとほぼ全科目満点だ。カンニングが疑われるレベルだ。

第三子は小6から、ラテン語とタミル語もやっている。もちろん、親がさせるわけはない。本人の希望だ。中3ごろには、ラテン語もタミル語もペラペラだ。ラテン語の原書も読んでいる。

中3で英検準2級に合格した。大幅に余裕があったので、中3のうちに2級も受けたら、準1級に合格可能なほどの余裕をもって合格した。

中3の夏から秋にかけて、中学の内容は全部終わり、模試の成績を見てもこれ以上することがないので、高校の勉強に移行した。

小中高と1日も学校へ行かず、塾も習い事もない。親が勉強を教えることもない。完全独学でハイレベルに教科学習を習得している。

高1年齢で駿台模試を4回受けた。中3時点よりさらにパワーアップしている。大学ごとに判定がでるのだが、すごいことになっている。

高1で高卒認定に合格し、現在高2。本人は大学進学を強く希望している。大学で学びたいことも固まっている。今後、怖いのは油断だけ。

第三子は、読み聞かせ、書き写しを質、量ともに徹底した。パワーの源泉はこれだけだ。こんな、誰でもできる、お金もかからない、それでいてえげつない成果をもたらす重要な秘密を、誰も知らない。どうせ言ってもだれも聞かないから、言うの、やんぴ。

第三子は、ふつうに学校へ行っていたらこの学力は無理だと言っている。ホームスクーリングだからこそ、と。第三子と同等かそれ以上の成績の子たちは、たぶん起きている時間の大部分を勉強にあてているだろう。厳しい競争にさらされ、死に物狂いかも知れない。第三子はずいぶんのんびりしている。親は、第三子に対して「勉強をしなさい」と言ったことは一度もない。自己管理、生活習慣などに関しても、なにも言ったことがない。やりたいことはできるだけ実現させたいしその支援は惜しまない。

第一子、第二子と比べると、第三子はドラマがない。あまりに順調すぎる。きっと、大学進学後にドラマを作ってくれるだろう。親はなにも期待していないから、てきとうに頑張れ! (親が変な期待をすると子どもにとってろくなことはない)
 

 

第一子が大学受験を決意するまでを書いた。

第二子は、第一子より2年半あけて生まれた。学年は3つ下になる。第一子に大量の読み聞かせをしているさなかに生まれたので、第二子も生まれた時から読み聞かせを浴び続けた。読み聞かせをしたというより、生まれた時から読み聞かせが日常だった。第一子と第二子がそろって読み聞かせを聞き続けた。

第一子がだんだん自分で本を読めるようになっていくと、第一子が第二子に読んで聞かせたりもした。だから、第二子は言葉が早めで、本を自分で読み始めるのも早かった。早いのがいいというわけではない。生まれたときから読み聞かせを浴び続けると、自然に早くなる。急がせたのではなく、それが自然なペースとなったのだ。

第二子は保育園に行っていない。だから、幼い頃よりずっと創造的だった。いろんなものをよく作った。なにしろ、材料と道具はなんぼでもある。なんぼ無駄遣いをしてもオッケーなのだ。4~5歳ぐらいにはお菓子作りもやりだした。

3歳から生協の活動が始まり、最初から参加していた。スタッフの子に同じくらいの年の子が数人いて、いつもいっしょに遊んでいた。京大の活動では、大人たち、大学院生たちにかわいがってもらっていた。

生協と京大以外にもいろんな活動が広がっていった。2008年からは、積水化学工業がCSRの一環として童仙房へ森林保全活動に来ている。その活動を童仙房につないだのも私だ。年に3~4回ぐらい、数十人ずつ童仙房に来た。社員の子どもも来た。ずいぶん多様な、幅広い地域、年代、属性の人たちと交流した。これは、わが家の4人の子全部がそうだ。ありがたい環境だった。学校に行っている子たちよりはるかに多様な交流ができただろう。これがなければホームスクーリングは困難だったかもしれない。

第二子は第一子と異なり、勉強が大好きだった。小学生になる前から漢字や計算をやりたがった。無理強いはしないが、やりたがれば、やりたいだけやらせる。小学生になるころには、九九を覚えたり漢字もある程度覚えたりしていた。書き写しは小学生になるより前から始めた。本人がやりたがった。勉強について、何の苦労も心配もない。たくさんの本を読み、毎日書き写しを継続した。土台もしっかりできてきている。

小中学生では、進研ゼミもやった。4人の子みな同じだ。それ以外は塾も習い事もない。進研ゼミは独学教材だ。

小学1・2年生では『自由自在』の算数(しかない)。分厚い本だが、順調にやっていった。楽しいらしい。小学3~6年生も『自由自在』4科目を順調にやっていった。小学生の勉強はたっぷりおつりが来るほど習得した。

基礎英語は小学3年生から始めた。かなり早いかと思うが、暗唱、書き取りを真面目に継続した。

中学生になって、『総合的研究』5科目を順調にやっていった。まったく何の心配も問題もない、はずだった。が、中1の終わりごろから、どうしたわけか、勉強をほとんどしなくなった。書き写しだけは継続していたが、教科学習をほぼやらない。スランプかな、と思い、そっと見守った。学校に行っていれば、スランプ時にそっと見守ることはなかなかできないだろう。1カ月あまりの間隔で、次々と定期テストがやってくる。それが内申になるのだから、テストを捨てるわけにはいかない。見守ることができるのは、ホームスクーリングだからこそ、なのかもしれない。このへんは、学校教育がもうちょっと柔軟な、レジリエンスを備えた仕組みになった方がいいと思う。

スランプは長引いた。中3になってもスランプだ。このままでは、中学の勉強が欠落したままで大人になってしまう。第一子は小学生の間、勉強をほとんどしなかったが、中学生になって小学生の勉強も取り返しながら巻き返した。第二子は逆に、小学生の勉強はしっかりやったし、ちゃんと身についている。中学の勉強がからっぽだ。

これはマズイかもしれない。中3の頃、学校へ行きなさいと言った。中学の先生に連絡しておくから、夏休み明けには登校しなさいと言った。第二子は強く抵抗した。「無理に行かせたって不登校になるだけだよ」と脅した。

中学の内容をある程度はやっておかないと、大人になったときに困る、ということは本人も理解した。中3の2カ月ほどで、中学の内容を突貫工事で習得した。とはいっても、スランプのさなかだ。あまり根を詰めた勉強ではなかった。中学の終わりごろ、公立高校の入試問題をやってみた。第一子と同じような成績だった。進学校は無理。平均よりいくらか上というところだった。これ以上を求めるのは困難だった。とりあえず、大人にはなれるか。

中3の春頃、海外留学したいと言い出した。本人が言い出したことだから、支援する。ちょっと遊びに行く、というものではないので、まずは情報収集だ。留学説明会をいろんな会社が大阪で随時開催していた。一人で説明会に行かせた。海外留学を本気でしたいなら、親がついていってはだめだ。一人でどこへでも行動できないなら叶うはずがない。

第二子は自分で探してたくさん参加した。いろんな話を聞き、交流もした。留学生をまじえたキャンプ(合宿)にも参加した。中3の時、一人で企画し、京都市の外国人が利用する民泊へ泊まり、外国人が訪れるところを次々訪問して交流を試みた。親はお金は渡したが関与していない。世界中の人たちと文通(手紙)も始めた。

留学へは熱意があったが、教科学習については高校年齢でもスランプが続いた。高1年齢の1月からコロナ時代となり、あらゆることが制限された。だから、留学は棚上げだ。

すると、かどうかはしらないが、第二子はさらにスランプ度が強くなった。親として、とても心配した。

高2年齢の夏頃、とつぜん、大学へ行きたいと言い出した。あんなに勉強をしない日々が続いていたのに、なんということだ! 本気なのだろうか?

第二子は、東大、京大から国立大学、私立大学、専門学校までじつに多くの学校案内を取り寄せて、じっくり比較検討した。そして、ある難関国立大学を志望すると宣言した。

「そんならどうして勉強のブランクを3年間もつくったんだ?」と聞くと、「あの時期は哲学していたんだ。3年間の哲学がなかったら、大学へ行こうとは思わなかった」ってさ。まるで三年寝たろうやないか。

ちなみに、第二子は、中3で英検準2級、高1年齢で英検2級に合格した(ほぼ基礎英語のみ)。高2年齢で高卒認定に合格した。高3年齢で(受験生であるにもかかわらず)合宿免許で普通自動車運転免許を取得した。

三年寝たろうよ、起きたか。よし。