第一子が3歳になる少し前に、第二子が生まれた。第一子がまだ宇宙語を話していた時期だ。ここまで書いてきて読み返してみると、第一子の子育てがきわめて順調に首尾良く進んでいたように見えてしまう。そんなことはまったくない。なにしろ、新米のパパとママだ。試行錯誤の連続で、今から当時を振り返ると、第一子に申し訳なく思うことばかりだ。

第一子は生後6カ月で読み聞かせを始めたが、第二子は生まれると同時である。第一子に読み聞かせているのを聞いている(聞いていないかも知れないが、横にいる)からだ。4人の子が2年半間隔で生まれてきたので、読み聞かせは休みなく継続した。

第一子が3歳ごろ、つまり宇宙語を卒業して日本語をしゃべるようになったころ、絵本と字が中心の本を混ぜながら読み聞かせた。となると、第二子は生まれて半年もたたないうちから、文字が中心の本を聞いていたことになる。生まれたときから図鑑のコンプリートセットがあったことになる。

読み聞かせを始める時期も、字が中心の本に切り替える時期も、図鑑を買う時期も、第一子の時には考えたが、第二子以降は、考えることに意味がなくなった。全部、生まれたときから始まっている。第三子、第四子も同じだ。下の子ほど、生まれた直後から、難しめの本を聞いている。もちろん、絵本も聞いている。

わが家の経験から言うと、早すぎることに何の問題もなかった。それはそうだろう。聞くことをもとめずに、ただ読んだだけだから。子どもたちからすると、ただそこに本を読んでいる親がいるだけで、聞こうと聞くまいと、どのように過ごしてもかまわない。もし、私の体験を参考にしようとする人がいたら、念を押しておきたい。子どもに聞かせようとしたら、聞くことを求めたら、たぶん読み聞かせは失敗する。図鑑も、そこにあるだけで、手に取ることさえ求めなかった。

親が読み聞かせをしていると、意味がわかっていると思えない時期でも、けっこう聞いている。読み聞かせをしてもらっていると、心地良いのかもしれない。何もしなくても、図鑑もよく読んでいた。

そのうち、親もわかってきたので、読み聞かせの際、昔話の割合が大きくなっていった。下の子ほど、昔話を中心に読んだ。そのときには、上の子も聞いている。第一子からすると、年齢が上がるほど、昔話をたくさん聞くようになった。第一子は小学生になっても、読み聞かせを楽しんで聞いていた。

そのように読み聞かせていると、やっぱり昔話は違う。食い入るように聞いている。子どもたちの反応をみていると、昔話が持つ力を強く認識する。書店に行くと、昔話が絶滅危惧種のように感じられる。私が子どもの頃は、テレビで「まんが日本昔ばなし」を毎週放送していた。なかなかの人気番組で、お堅い(?)教育関係団体が優良番組と認定したりもした。私も大好きで、よく見ていた。「まんが日本昔ばなし」を俗悪番組であると酷評する昔話の専門家の意見も聞いたことがある。テレビ番組は時間枠が固定なので、長い話を短くしたり、短い話を長くしたりという改変が著しいというのが理由だ。でも、あの番組によって昔話に親しんだ人は多かっただろう。

1975年〜1994年という長期間続いた番組だったが、それと同時進行だったか、番組終了後なのか、静かに、ひっそりと、昔話の本は減っていった。テレビ番組が盛り上げて本もふえるのか、というと、そうはならなかった。ちなみに、私の子どもたちが小学生の頃、「まんが日本昔ばなし」をDVDで借りて見せた。本で読む方が面白いと言っていた。小学生になると、自分で昔話の本をガンガンと読んでいた。昔話の本がすべて子ども向けなのではない。大人の資料として作られた本や、大人が読んで楽しむために作られた昔話の本も多い。現在新刊で買える本はずいぶん少なくなったが、ヤフオクやアマゾンで、以前に作られて絶版になっている昔話の本を買うことができる。わが家には、昔話の本が多くなった(大部分が絶版である)。子どもたちが小学生ぐらいになると、大人が読むような本を、普通に読んでいた。

戦後まもない頃は、昔話が劣った非文化的なものという意見が主流をしめ、昔話の改変が大々的に行われたそうだ。正しい昔話を守ろうという人々の努力もあって、昔話は生き延びた。「まんが日本昔ばなし」は最後のあだ花だったのだろうか。

しかし、私は子育てで、昔話のとてつもないパワーを実感した。どんな教育メソッドも、どんな教材も昔話にはかなうまい。現代の人たちは、そんな昔話を忘れ去ろうとしているように見える。現在も、昔話を守り伝えようと努力する人々はいる。ただ、世の中は、昔話の価値を認めず、昔話がニッチな分野になりつつあるのかも知れない。

そもそも、今の親たちは、「昔話」とは何なのか、知っているだろうか。昔話をどのくらい知っているだろうか。昔話を聞いて楽しんだ経験があるだろうか。

未来をになう大切な子どもたちのために、昔話がどれほど大切なものか、伝えたい。間違いなく、人類の至宝だ。
 

 

読み聞かせをするとき、絵本よりも文字中心の本の方が良い、という意見もある。絵本はイメージが固定されてしまうが、文字だけだと、子どもが聞いていて自由にイメージをふくらませられる、というのだ。私もそう思う。ただ、順序があるのは間違いない。

昔話には、今の子どもたちが(もしかすると大人も)イメージすらできない言葉や風景がふつうにでてくる。薪、柴、井戸、森、田んぼ、畑、古い民家といったイメージができるだろうか。わが家は田舎にあるので、これらは自分の家にあるか、身近に見られる。日常的には都会と同じように電気炊飯器でご飯を炊くが、防災訓練あるいはレジャーとして羽釜でご飯を炊いたりすることもある。そこらへんに落ちている木切れを拾ってきて、薪にする。わが家の子どもたちにはありふれた体験だ。

都会の子にはわからないだろう。直火すら見たことがないかもしれない。都会に住む小学校高学年の子が遊びに来たとき、家の近くを散歩していたら、シマヘビがいた。怖いヘビではない。田舎ではどこにでもいるありふれたヘビだ。「ヘビだよ」と教えてあげたら、「初めてヘビを見た」って。逆にそのことに驚いた。昔話にはヘビがよく出てくる。

動物園に何度か行ったり、図鑑に親しんでいたりすると、動物がわかるだろう。そうでない子は、昔話にでてくる動物がわかるだろうか。タヌキ、キツネ、うさぎ、馬、牛、サル、カニなど定番だ。ももたろうには、キジがでてくる。わが家の周囲ではキジは道ばたにいるので珍しくない。都会の子は知らないだろう。昔話の設定は江戸時代あたりなので、現在田舎に住んでいても、江戸時代の暮らしそのものはわからない。

さらに、外国の昔話だと、衣服も住居も動物もさらにイメージしにくい。さすがにこれは日本の田舎に住むうちの子たちにも難しい。

鬼、やまんば、妖精、トロル、悪魔、龍、天狗、カッパなどの実在しない(実在すると主張する人もいるから、「多くの人には目視できない」といいかえようか)存在をどうイメージすればいいだろうか。

このようなイメージづくりに絵本は欠かせない。絵本の絵は、適当では困る。正しい絵であってほしい。お話に関係ない不要なものは描かず、動物も風景も生活道具も、正確に書いてほしい。もののけというか妖怪もふさわしいイメージを示してほしい。奇抜な絵ではなく。

絵本の絵はとても重要だと思う。もしかすると、その子の生涯を左右するかも知れない。読み聞かせは「知の身体化」なのだから、絵も身体化される。じつは、市販されている絵本の中には、子どもにふさわしくない絵がかなり多い。第一子は、生後6カ月で読み聞かせを始め、言葉がでる3歳ごろまでは絵本ばかりを読んでいた。3歳ごろからは、文字だけの本も読むようになった。たっぷりと絵本に親しんだら、自然と字だけの本に移っていけた。

かわいい絵、きらびやかな絵、デザイン性のある絵は、子どもにふさわしくない。別の視点で良い絵であるかもしれないが、子どもが身体化してゆく絵として適切ではない。たくさん絵本を読み聞かせしていると、感覚としてわかってくる。第一子に読み聞かせしているころは、私も父親初心者だったので、ふさわしくない絵本もまじえて読み聞かせしていた。第二子、第三子、第四子とすすむにつれて、私の父親経験知も向上し、読み聞かせが改善されていった。第一子は損だ、といえばたしかにそうだ。すまん、許せ。

「良い」絵本作家は、正しい絵を描くためにたいへんな努力をしている。自らの技量を披露するための努力ではなく、子どもに正しい絵を届けるための努力だ。そのような作家さんが存在することは、ほんとうに、ありがたい。

図鑑も大切だ。私が幼い頃は2種類の図鑑セットがあった。よほど幼い頃から図鑑も大好きで、ひんぱんに頁をめくっていた。絵本と同じようなものだったかもしれない。動物だけでなく、生き物各種、乗り物、地球、宇宙、人体、何でも見ていた。保育園に通っていた頃、人体血管図を描いて、大人たちをびっくりさせたことがあるらしい。大人は「人体血管図」と認識して驚いたが、なんのことはない。私からすれば、赤と青のきれいなイラストだったのだろう。「この子は医者になるのか」と期待したそうだが、残念ながら、ただのお絵かきにすぎない。しかし、当時、図鑑に親しんだことは大きな財産となっている。

第一子に読み聞かせを始めた頃、図鑑セットを買った。絵本を読み聞かせするのと並行して、図鑑にも興味を示した。セレクトするのではなく、すべてをそろえたコンプリートセットだ。子どもが興味を持つ図鑑だけ、あるいは親が子どもに与えたい図鑑だけを選ぶことは避けたい。それでは世の中を知ることにならないからだ。そこには大きなプランがある。行き当たりばったりの子育てではなく、世の中を知りつつ、言葉をしっかり身につけて、物事を自分の頭で考え、世界を広げ、多様な世界で多様な人たちとともに、望むような行き方をして欲しい。第一子が生まれたときから、私はそう考えた。第一子が大学生になるまで、みじんも揺るがなかった。だから、スタートとしての読み聞かせと図鑑コンプリートセットなのだ。

第一子は、じつによく図鑑に親しんだ。第一子は動物が大好きで、動物図鑑を集中的にみていた。動物図鑑はボロボロになるので、何度か同じものを買い換えた。動物図鑑以外はどうかというと、あれば見る。ひんぱんではないが、たまに本を開いていた。このことはとても重要だと思う。あれば見る、ということは、なければ全く見ないということになる。世の中のことを知りつつ育つのか、全く知らずに育つのか。テレビで見られるじゃないかというかもしれないが、それは違う。子ども向けのアニメだと正確な描き方ではない。実物を映した場合でも、図鑑のように網羅的、分類的、体系的にはならない。

幼い子がいるのに図鑑セットがない家は多い。子どもに何かを買ってあげるなら、一番は図鑑セットだ。絵本は図書館で借りてもいい。図鑑は常に手元にあったほうがいい。図鑑は意外と盲点かも知れない。図鑑は1冊ずつはあまり高くない。でもコンプリートセットなら数万円かかる。子どもに数万円のオモチャなどを買ってあげるご家庭は多いだろう。数万円で何を買うかというのはそのご家庭の価値観であって、選択だ。幼い子なら、その選択はその子の生涯を左右するだろう。図鑑セットを検討することを提案したい。お金に困っているご家庭もあるだろう。子どもが興味を持つジャンルの図鑑を1冊でも数冊でも、できれば手元にあったほうがいいと思う。その投資は財産になる。消費してしまうお金の使い方ではない。他の図鑑は、図書館で借りてきてもいいと思う。幼稚園、保育園、学童など子どもが集う場所に図鑑のコンプリートセットを備えてあるだろうか?

絵本の絵は正しい絵であってほしい。図鑑の絵・写真は正しいものに決まっている(でなければ図鑑ではない)。そうして、子どもは世の中を知る。そうなれば、次は自分でイメージをふくらませていける。第一子は3歳ごろにはすでにそうだった。

 

 

生後6カ月から絵本をたっぷり読み聞かせした。第一子は、歩くのはやや早かったが、言葉はやや遅かった。2歳ごろ、言いたいことが強くあるようで、一生懸命話そうとするのだが、「○⇔仝@〆¶△×◆♫^&■#」という宇宙語になってしまう。ごめん、何言ってるのかわからない。

すると、さらに一生懸命話そうとして、流ちょうな宇宙語を話す。ごめん、パパは地球人。できれば、地球語で、それもできれば日本語でしゃべって。

意思表示、コミュニケーションをとてもしたがるのは、読み聞かせの成果なのかも知れない。あまり通じないと、癇癪をおこす。大人でもわかってもらえないとブチ切れたりする人もいるぐらいだから、2歳児ならやむを得まい。

当時は、童仙房に保育園があった。ここでは待機児童の問題はない。子どもがあまりに少なすぎるので、希望する人は全員入園できる。

第一子は2歳から保育園に通っていた。さて、保育園でも宇宙語である。保育士さんは地球人だ。宇宙語に堪能な第一子は、二言目はたぶんこうだっただろう。「なんでわからへんねん! さっきからゆーてるやんけ!」

ところが、3歳になる直前ごろ、急に地球語を、それもありがたいことに日本語を話しだした。こないだまでの宇宙語はなんだったんだ?というぐらい、流ちょうな日本語である。

保育士さんは、第一子の言葉を聞いて、「筋道だった話し方をしますね。わかりやすくお話ししてくれます」と言っていた。言葉はやや遅かったが、話しはじめたとたん、理路整然と話す。これはあきらかに読み聞かせのたまものだろう。宇宙語だったのは、言葉がでないのではなくて、いくらでも言葉はでるのだが、いっきに理路整然とした話し方をしようとして舌がまわらなかったようだ。

私は早期教育、幼児教育には賛成しない。子どもの成長や関心と関係無しに用意されたプログラムに当てはめるのは逆効果ではないかと思う。子どもの成長を急ぐこともない。教育も、早ければ早いほど良いと考える人が多いようだが、そんなことはない。土台さえできていれば、ゆっくりでもかまわない。土台づくりは、教育とは別ものだ。このへんは、当時の私でも明確に認識していた。

読み聞かせは、子どもに何も強いない。プログラムやカリキュラムもない。ただ、本を読むだけだ。

第一子は、3歳で、土台づくりがうまくいきつつあるようだ。

2歳ぐらいで、絵本と並行して、文字が主体の本も読んできた。昔話集や創作童話、児童文学などだ。2歳児にはあきらかに言葉が難しいだろう。わからなくてもいいし、聞かなくてもいい。どんなかっこうで聞いてもいい。でも、読み聞かせていると、不思議なことにちゃんと聞く。わかっているのかどうかわからないけど、そもそもわかることを期待しているわけでもないので、確認もしない。

自然と言葉になじんでいくのだろう。私はホームスクーリングの過程で、勉強ということについて、そうとう勉強した。今では、確信している。このやり方は、とても良い。「正しい」と言ってしまいたい誘惑にかられるが、ぐっとこらえる。

「知の身体化」なのだ。勉強の土台づくりとは、知を身体化することなのだ。かつて、日本の教育は、知の身体化が基本だった。江戸時代に学問を身につけるには、5歳ごろから、漢文の素読(そどく)をする。漢文と言っても、四書五経が主に使われる。中国の最高峰の古典だ。日本語訳ではない。漢文のままで、暗唱する。意味がわからなくてもかまわない。何も見ずにすらすら言えるよう、訓練する。そうやって最高峰の人類の知を身体化した。唐木順三は、それを指摘する。明治初期の文化人たち(漱石や鴎外など)と、その後の文化人たちの間には明確な断絶がある。その後の文化人たちは、素読ではなく、学校教育で教養を身につけた。だから薄っぺらいのだ、とのこと。

素読の威力はすさまじいようだ。

第一子が4歳の時、同じ年の友だちと散歩をしていて、山を指さし、「あそこに鬼がいそうやなあ」と言った。友だちは言った。「鬼って何?」

第一子も、さすがに鬼は見たことない。私も見たことない。世の中には、鬼を見たと主張する人があるかもしれないが、鬼は存在しないことになっている。第一子は、鬼をリアルに想像した。このことの意味は大きいのではないか。存在しないものを想像する力。いいかえると、目に見えないもの、具体的に把握できないものを想像する力。他人を理解する、地球の裏側を理解する、はるかな過去を理解する、未来を予想する、遺伝子を理解する、コンピュータを理解する・・・。

ここでひとつ、鬼をなめるな!と言っておこう。