第一子が生まれたことで、私は父親になった。当たり前だが初体験である。どう育てていけばいいか、何もわからない。あれこれ見聞きしたことはあるが、実践したことがない。

多くの人は、親になったとき、自分の生まれ育った環境、自分の親が自分をどう育ててきたかを振り返り、参考にするのではないか。もしかすると、反面教師として参考にするということもあるかもしれないが。

私の父親は、どのように子どもを育ててきたかという「方針」を、私が大人になってからも語っていた。同じようにしろとはひと言も言っていない。それが正しいことだとも言っていない。ただたんに、経験を語っていただけだ。

それを思い出す。私が参考にしても良さそうな部分は、こんな感じ。

本が大切。絵本の読み聞かせと、読めるようになったら読書。

文房具はたくさん与える。紙などを無駄遣いしてもいい。好きなように、好きなだけ、やりたいことをさせる。

勉強は無理強いしない。興味をもつことは本人が得心するまでとことんさせる。

このへんは、私の父でなくても、かなり多くの人が同じことを言っている。そして、私はこのように育てられた。この3カ条は、もっと拡張しつつ、わが子に適用していこう。

3カ条のうち、最も幼いときに始められるのは読み聞かせだ。読み聞かせをする本は、ふさわしい年齢がある。けれども、年齢は無視しても良いのではないか。もちろん、むりやり押しつけるのは良くない。けど、杓子定規に考えることは子どもにとって良くないように思う。このようにいう人はあまりいない。私の経験と直感だ。ハウツーで人を育てるのは違うと思う。ウィニコットが言うように、ほどよい関係が最適ではないか。何が良いかは、親と子の交流で自然と定まってくる。外部が決めるのではない。

こんな感じで、生後6カ月から、絵本の読み聞かせを始めた。6カ月というと、首がすわって、親が抱えて座ることはできるが、まだハイハイはこれからだ。とはいっても、ごろごろころがったり、ハイハイっぽい動きをしようとしたりする。まもなくハイハイを始め、12カ月前後で歩き始める。

こういう、動き始める時期に読み聞かせを始めた。当然、言葉などわかるはずがない(ほんとうはいくらかわかっているのかもしれないが)。だっこして、絵本を読む。聞かない。動き回る。当然だ。でも、聞いている設定で読み続ける。どこかへ行ってしまっても、聞いている設定を崩さない。聞かない子どもを叱るなんて、とんでもない。

私が子どもの頃、たくさん絵本を読んでもらって、それらは今も覚えている。そして、今も書店で買える。3世代読み継がれてきた絵本が、力のある本物だ、というような意見も聞く。大人が読む書物でいえば古典に相当するのだろう。良い本だから、時代を超えて読み継がれてきた。必然的に古典は人類の至宝だ。どんなに古い作品でも、現代的意義をもち、汲めども尽きぬ学びがある。絵本も同じように考えたら良いのだろう。

私が子どもの頃親しんだ絵本を中心に買いそろえて、読み聞かせた。昔話も創作童話もある。たとえば、『ないたあかおに』は定番だが、昔話ではない。浜田廣介作の童話だ。伝承されてきたお話ではない。昔話は作者がいない。いつ生まれたとも、誰が作ったともわからず、数え切れないほど多くの人たちが語りついできたお話だ。だから、語る人によって、ゆらぎがある。『ももたろう』は昔話だが、『ももたろう』という固定されたお話があるわけではない。語る人の数だけ、様々なももたろうがある。だから、絵本によってももたろうが違っている。創作童話は作品が固定されている。ゆらぎはない。

その頃の私は、昔話の絶対的な重要性を認識しておらず、だいたいおすすめ絵本リストにありそうな絵本を選択していた。

ただ、書店に行くたびに感じたのだが、昔話の絵本も、昔話の読み物も、うんと少ない。アニメチックな絵本やディズニー絵本は昔話ではない。昔話そのものの絵本、昔はかなりたくさんあったが、いつのまにか、激減している。絶滅危惧種なのだろうか?

ないわけではない。さがせばそれなりにみつかる。でも、ふつうに書店にいって、子どものコーナーで探そうとすると、あまりない。昔話のシリーズやセットはあまり見かけない。昔話とそうでないものがごっちゃになっていて、昔話を選び出すことがむずかしい。昔話について少しでも見識のある人なら、選び出せるし、書店の店頭になくても探して入手できるだろう。でも、多くの親にそれは困難ではないかと思える。となると、21世紀の子どもたちは、昔話を知らずに育つのかも知れない。五大昔話といえば、ももたろう・かちかち山・さるかに合戦・したきりすずめ・はなさかじじい。私が子どもの頃は、これらを知らない子はいなかったと思う。今も、すべての中高生あるいは大学生があたりまえのように知っているのだろうか?

そんなことを感じつつも、昔話と創作童話をともに、読み聞かせた。創作童話も、すばらしい作品がたくさんある。

読み聞かせるうち、子どもは楽しんで聞くようになっていった。気に入った絵本は、なんども繰り返すことをせがむ。同じ絵本を10回ほど繰り返して読むのは、少々、忍耐も必要だ。なるべく子どものリクエストにこたえた。

読み聞かせは非常に大事だ。そんなことは親になる前からよくわかっていた。だから、生活の中で、最優先した。夫婦で交替しながら、読んで読んで読み続けた。いくら忙しくても、他に用事があっても、読み聞かせが最優先。読み聞かせは、親にとってもけっこうおもしろい。子どもの本とて、バカにできるものではない。読み聞かせは苦行ではない。最良の娯楽である。という流れができたら、読み聞かせの無限ループに入っていく。子どもはその中心にいる。

 

第一子が1歳になる直前、童仙房内で、近所で古民家を借りて大リフォームを始めた。童仙房は、明治初期の開拓地で、その後も順次入植があった。戦後に入植して早くに出て行かれた方が建てた家だ。いわゆる田舎の古い屋敷ではない。開拓者の住居だ。

屋根と柱だけそのまま流用して、他はすべてやり直した。ながらく空き家だったので、いたみも激しかった。柱の根元が腐り、屋根からぶら下がっている箇所もあった。そういう柱はジャッキで持ち上げてコンクリートで根元を固めた。湿気にやられている壁は、下部をコンクリートにした。

床も壁も天井も、新築並みに全面改築だ。部屋の間取りも変更し、建具さえも自作した。トイレも風呂も朽ちていたので、すべてやり直した。風呂はユニットバス、トイレは簡易水洗。一部、業者に手伝ってもらったところもあるが、ほぼ私の自力改築だった。

電気とガス(プロパン)は業者にやってもらったが、水道は自力だ。水道工事は資格が必要だとツッコミが入りそうだが、ノープロブレム。童仙房には上水道も下水道もない。各家が井戸をもっている。この家でも、新しく井戸を掘り、ポンプを据えた。そのポンプからの配管を水道と表現したのだ。配管工事でヘマをしでかしても、誰にも迷惑がかからない。自宅だけで完結しているのだから。べつに、ヘマはしなかったけど。

電気にしても、屋根裏、壁裏のどこをどう配線が通っているか、すべてわかっている。基幹が7本あり、それぞれがどこをどうカバーしているかもわかっている。どのブレーカーとどのコンセント・照明がどうつながっているか、わかっている。

9月7日に着手し、12月16日に住み始めた。すさまじい突貫工事だ。完成ではない。半分ほどの出来で、残りは住みながら工事を進めていった。

ほぼ完成したと言える状態になったのは、夏頃だ。さらに、2年後には、合併浄化槽を設置し、簡易水洗トイレを水洗トイレに変えた。浄化槽と便器据え付けは業者だが、それ以外の工事は私がやった。

家の形としては、これが現在もそのままだ。あちこち、修理や変更は重ねてきたが、基本形は変わっていない。

第一子が生まれたのは、前の家だが、第二子以降はこの家で生まれ育った。第一子も1歳以降はこの家なので、前の家は記憶にない。

子どもたちが大きくなるにつれ、机が必要となる。学習机を置くスペースはない。かといって、昔のようにミカン箱で勉強しろというわけにもいかない。壁に板を取り付けて机とし、参考書等をふんだんに置けるよう、机のまわりに本棚を作った。すべて自作である。

この家は、ありがたい。北側にゆるやかな傾斜があって茶畑が一面に広がり、南側が開けている。東隣の家は直線距離で30mぐらいなのだが、その間に小高い丘があるので、互いに音は聞こえない。犬が吠えても子どもが叫んでも、近所迷惑にならない。西隣の家は、直線距離で200m以上あるだろう。南隣の家は、遙か彼方で、もはや隣とは言えない。家は車道から30mぐらい入ったところにあるので、子どもたちが家の周りで遊んでいても危なくない。

童仙房には、熊と猿はいない。鹿や猪、里山にいる動物はたいがいなんでもいる。人間に危害を加える動物はいない。気をつけなければいけないのは、マムシとスズメバチだ。スズメバチは、毎年スズメバチホイホイをしかけているので、家のまわりではあまり見かけなくなった。マムシもめったに見かけない。子どもたちには、マムシを見分けられるよう、教えてある。都会の人たちは、マムシやスズメバチ(とくにオオスズメバチ)と聞くと、大げさな恐怖を感じるようだ。それはナンセンスだ。マムシもスズメバチも、こちらが攻撃をしない限り、おとなしい。悪意はないし、凶暴でもない。その点、人間はどうなんだ? 悪意もあるし、凶暴な人もいる。田舎にはそんな人はいないし、他所からおかしな人がくれば、てきめん、目立つ。集落内の人たちは、みんな、私の子を知っている。集落じたいがセキュリティだ。都会の方が、はるかに危険に満ちている。

童仙房で子育てすると、本当に楽だった。「近所迷惑」という言葉は不要だった。「危ない」という言葉もあまりいらない。家の中にいようと、外にいようと、好きにすればいい。自然の木や土が、そのままオモチャになる。わが家には工事の余韻として、木材の断片がたくさんあり、工具や道具もなんでもある。工作は無制限。

私は田舎暮らしにあこがれていたわけではない。望んだわけでもない。なりゆきで、童仙房が気に入り、住み続けている。今年でちょうど30年になる。

田舎にあこがれていたわけではないが、「自力」にはあこがれる。いつか、自分が住む家を自力で作ってみたいと、若い頃からあこがれていた。そんなことは無理だろうとも思っていた。親になってすぐに実現した。感無量だった。子どもたち4人、この環境で育った。家を建てる知識やスキルがあったわけではない。土方をやってきた経験を拡張することで対応できた。

家の中で最も改造したのは、本棚だ。本についてはそのうち書くが、わが家には異常なほど本が多い。とうぜん、置き場所に困る。置き場所を考えてから本を買うのではなく、本を買ってから置き場所を考える。子どもたちもそういう思考回路になっている。だから、壁は本棚に変わっていく。壁に本棚を設置するのではなく、壁に板を打ち付けて、壁そのものを本棚にしてしまう。現在、わが家には壁が残っていない。本棚はそこらじゅうにあるが、壁はない。子どもたちはさらに本棚に変えられる場所をいつも探している。すると、ないはずの壁がみつかる。そこが本棚に変わっていく。子どもたちは、本棚は作るものだと思っている。いくらでも増えていくものだと思っている。子どもたちが、もっと本を増やせといつも言っている。私が本を買うのをためらっていると、子どもたちに活を入れられる。

4年前に、家の外のスペースに書庫を建設した。家族総がかりで、工事した。子どもたちも、1棟の建物を自力で作るという経験ができた。その書庫には数千冊の書籍を収納しているだけでなく、夜は第二子が寝室代わりにしている。本宅は寝る場所が狭いので、かってに書庫を寝場所として使っている。

家の修理や改造はほぼ自力だ。パソコンも自作する。梅干しも自作だ。味噌やジャムもときどき作る。パン、ピザ、ケーキなんかも作る。子どもたちもいろんなものをつくる。

受け身の生き方は好まない。自分でできることは自力でする。自力でできることを拡張していく。わが家の伝統だ。その1丁目1番地が、家作りだった。その延長上にホームスクーリングがあることに、気づいてくれたら、うれしい。
 

 

1996年にパソコンを買い、インターネットを始めた。日本人でインターネットをやっているのは、ごく少数だった。誰かに教えてもらうことは望めず、すべて独力だった。その年、ホームページをつくり、田舎での暮らしを発信した。田舎に住んでいる人が田舎での日常を発信したのは私が初めてだと思う。雑誌や新聞でたくさん取り上げられた。当時のホームページは、HTMLタグを手打ちするしかなかった。その教科書もろくにないし、googleだって存在しない時代だ。日本語で書かれたホームページが3000ほどと言われていたので、何もかもが手探りだった。ブログサービスもSNSもない。電話回線にモデムで接続し、インターネットをする際に電話料金がかかるという時代だった。ネットで動画を見るなど想像すらできない。画像の重たいホームページは迷惑だった。現代人から見れば、石器時代のように見えるだろうか。

当時、ネットユーザー同士の交流は、メーリングリストが主流(というか、他にない)だった。現在もメーリングリストは存在しているが、知らない人が多いのではないか。電子メールのサークルだと思えばいい。何かのテーマで誰かが自由に立ち上げて管理人となり、自由に参加する。私は多いとき15ぐらいのメーリングリストに参加していた。その中の1つでたまたま出会った女性と、たまたま結婚することになった。「たまたま」とことさら書いたのは、出会いを目的にした場ではないし、どちらもパートナーをそこでみつけようという思いはまったくなかったからだ。当時は出会い系サイトなど存在しない。インターネット上に出会いを目的にする場はなかったと思う。そんな下心を持つ人はあまりいなかっただろう。ネット上に危険な人はほぼいなかった。ネットマナーがものすごくうるさかった。現代人が見たら発狂するかもしれない。そのぶん、ネットは安全な世界だった。1996~1997年ごろのことだ。

結婚したのは1999年。童仙房に移住して8年目。私は関西で妻は関東。育った環境も趣味も性格も何もかも違う。接点がないはずなのだ。どうして結婚することになったのかよくわからないが、こういうケースのために「運命の赤い糸」という設定があるのかもしれない。なにはともあれネット婚だ。しかも、最初期のネット婚だ。インターネットがなければあり得ない出会いと結婚だった。インターネットの神様、ありがとう!! \(^O^)/ 

1999年から2000年にかけて、日本人のかなり多くがインターネットをするようになった。「かなり多く」であっても大多数ではない。1998年ごろまでは、インターネットをやっている人は、全員スキルが高かった。1999年以降はスキルの低いユーザーが大量に増えて、パソコン教室のようなものが大繁盛した。日本語のホームページも爆発的に増えた。まだまだタグの手打ちをしていた時代だが、ホームページ作成用のソフトも出始めた。ブロードバンド環境はまだだが、電話料金に悩まされずにインターネットができる「フレッツISDN」が登場した。良い時代になったと皆大喜びしたのだが、現代からみると、ISDNは忍耐不能な遅さだ。携帯電話は普及しつつあったが、携帯電話でインターネットはできない。そんなこと想像すらできない。もちろんスマホは想像の中にすら、ない。インターネットをするためにはパソコンが必要だった。だから、パソコンがバカ売れした。googleが誕生したのもこの時期だ。アマゾンや楽天市場も出てきた。信じられないだろうが、アマゾンは弱小ショップだった。日本ではyahooのサービスがブレイクした。インターネット環境が徐々に向上してきた。石器時代から縄文・弥生時代に進んだ感じだ。

2000年に私は初めて独自ドメインを取得し、レンタルサーバを借りた。以後、こんにちまで、たくさんのドメインを取得し維持してきた(廃止したものも多い)。レンタルサーバもずっと運用している(今は3つ)。パソコンのスキルはすべて独学だ。専門家とはいえないが、幅広くいろんなことができる。様々な仕事を請けてきた。

さて、結婚した次の年、2000年に最初の子が生まれた。最初の子が生まれた時にはすでに、わが家はバリバリのパソコン家庭、インターネット家庭だった。パソコンやインターネットの環境がきわめて貧弱な時代から悪戦苦闘していれば、おのずからスキルは身につく。ちなみに、1996年当時、Windows95時代と現在のWindows10時代のそれぞれ標準的なパソコンのスペックを比較すると、単純な比較は困難だが、CPU、メモリ、ハードディスクとも、1000倍どころではない。ムーアの法則そのものだ。1996年ごろ、Windows95でAccess95を使っていると、ひんぱんにAccessがフリーズした。その際、Windowsまで道ずれにしてしまう。週に2~3回、Windowsの再インストールが必要だった。そのたびにパソコンをぶっつぶしそうになるのだが、実行にうつすことはなかった。パソコンは無傷で、スキルが蓄積されていった。整備されたもの、無難なもの、効率のよいものがスキルを伸ばすのではない。野蛮で未熟で不合理なものほど、スキルを伸ばす。勉強も同じことが言える(世間は逆に考えている)。

2002年からはパソコンを自作し続けている。親が使うパソコンは絶対こわれないように、早めにパーツを交換するので、使えるパーツが余る。もったいないので、それらを集めて子ども用のパソコンとして再利用する。

だから、うちの子は、3歳から自分専用パソコンをもっている。4人ともだ。リサイクルパソコンなので、どんな使い方をしても良い。つぶれても良い。無制限に、好きなようにして良い。子どもたちにとって、ものごころついたころから、パソコンは日常的なありふれたオモチャであり、道具だった。パソコンにあこがれることはなかっただろう。

石器時代からパソコンを使い、インターネットを利用していると、じつに様々なことを経験する。他人から相談を受けることも多く、経験値は加速する。「危ないこと」は匂いでわかる。世間で言われている安全対策とは異なる事項も多い。安全対策にはおおむねそれなりのスキルが必要だ。究極の安全対策とは、電源を入れないことに尽きるが、それでは意味がない。積極的に活用することとセキュリティとは、根本的に二律背反にならざるを得ない。だからスキルが必要なのだ。それらを子どもたちに伝受してきた。公にしにくい家訓のようなものかもしれない。好きにして良い、ということは同時に責任をともなう。

ようやく第一子が生まれたわけだが、ホームスクーリングはまだだいぶ先だ。今回書いた環境を見れば、ホームスクーリングではICTを駆使したのだろうと想像されるかもしれない。未来(2022年のこと)の教育は電子教科書やらオンライン授業やらギガスクールやらICTまっしぐらだ。じっさい、わが家でそのようなICTの活用はなんの問題もない。となると、私がICTを教育に活用する道を説く、と期待を抱かせたかもしれない。ごめん。裏切る。