2006年は、あまりに多くのことがタイミング良く、爆速で起きたので、書いていても散らかってしまう。

整理しよう。

2006年には、第一子が通うと思っていた野殿童仙房小学校が廃校となった。その時点で、第一子は小学生になるのを1年後に控えている。同時に、第一子が通っていた野殿童仙房保育園が廃園となった。それらと同時に、京都大学大学院教育学研究科と大阪の生協アルファコープが童仙房に来ることになった。京大と生協の活動は、短期間にあっというまに立ち上がった。

2006年3月まで、第一子は保育園児であった。それが、3月末をもって、保育園児でなくなった。他の子たちは、統合保育園に継続して通うことになったが、わが家では、先の記事で書いたように、村の教育行政に絶望していたので、統合保育園に通わせることはためらわれた。

3月31日まで保育園に行っていたのに、4月1日から保育園に行かなくなった。第一子は、保育園をそれなりに楽しんでいたので、どうしていかなくなったのか、と何度もきいてきた。保育園がなくなっちゃったと説明してみても、どうして?となる。やはり保育園に行かせるべきなのだろうか?

ためらいつつ、しばらく様子を見た。

時間はたっぷりある。おもちゃや文房具などの道具もふんだんにある。家の外には土も木も石もある。山も水もある。なのに、「ヒマや」「することがない」「何して遊んだらいいの」と朝から晩まで言っている。テレビを見ても、昼間は面白い番組をやっていないようだ。なぜ、何もできないのだろう?

第一子を観察していて、気づいた。自分では遊べないのだ。時間を自分で使えないのだ。今までは、保育園に通っていた。保育園では、遊び方も、必要な道具や材料も、遊ぶ時間も、全部用意してくれる。何も考えなくても、先生が導くとおりに従っていれば、楽しく遊べ、時間を過ごせる。保育園とはそういうところであり、一生懸命子どもたちのことを考えてくれる保育士さんだからこそ、なおのこと、そうなる。子どもはその環境に依存する。創意工夫や自発、主体性は失われる。保育園や保育士を批判しているのではない。そういう仕組みのものなのだ。仮に、子どもたちを放置して何も導いてくれない保育園や保育士があれば、どうだろう。たぶん、親たちがクレームをつけるだろう。良い保育園、良い保育士であればあるほど、あれこれ用意し段取りし導くだろう。それは子どもたちにとって、阻害要因になってしまっていないだろうか。

となれば、学校もそうだろう。子どもたちにすべてが用意される。そのように導いてくれるのが良い学校であり良い先生である。学校を批判して「○○教育」「○○メソッド」などが開発される。しかし、これらも、用意し導くという点では大きく変わらないかもしれない。何もしない学校があるかどうか。イギリスでニイルが始めたサマーヒルは大人が子どもに対して何もしない(管理しない)学校だった。それが世界各地に広がり、日本にもその思想にもとづくスクールがある。しかし、何の導きもないと、学力は育ちにくい。子どもたちの阻害要因にならない導き方となると難しいのではないか。

そんなことを日々、考えた。夫婦でも毎日そういう対話をした。

おもしろいことに、時間が解決した。

保育園に行かなくなって2カ月ぐらいの間は、第一子は毎日ヒマをこじらせていた。ヒマすぎてもだえ苦しんでいた。2カ月ほど経つと、急に変わってきた。「ヒマ」という言葉をあまり口にしなくなった。「ヒマ」とは、自分の時間を生かせていない現れで、人生を有意義に生きていないとも言える。望ましい言葉ではない。

そして、自分で、1人で、いろんなことをやりだした。本をじっくり読んだ。木や石で見たて遊びを自由自在にできるようになった。文房具や紙で、自由自在に絵を描いたり工作したりするようになった。自由自在にとは、誰も何も用意せず、導きもせず、まったく自分の意思と考えで行うということだ。これはクリエイティブ、つまり創造に他ならない。

第一子の表情は明るくなり、立ち居振舞いに活気が満ちてきた。自分の時間を自分で過ごせるようになった。つまり、人生を有意義に生きられるようになってきた。

第一子が保育園に通っていたとき、親である私は何の疑問も感じなかった。毎日、保育園に楽しく通ってくれていて、それがうれしかった。が、それは、見えないところで、子どもの創造性を疎外していたのだが、まったく気がつかなかった。

6月以降は、第一子は、保育園に行きたいと言わなくなった。保育園に行っていたときとは、雰囲気も行動も変化を感じる。創造性を身につけたことを感じる。

さて、翌年4月には小学生になる。どうするか。結論は出ていない。ただ、京大と生協が童仙房に来るようになったのだから、他地域への引っ越しは選択肢からはずれる。となると、オルタナティブ教育か。
 

 

京大と地域の連携が立ち上がっていくあり得ない速度に目が回るのだが、まだまだそれだけではない。それで目が回るなら、今回の話で失神しかねない。くれぐれも健康には気をつけて欲しい。

京大が初めて童仙房を訪問したのが3月2日。私が初めて研究室を訪れて2カ月たらずだった。その2週間後、3月中旬に、10年ぶりという電話をいただいた。

京都でエルコープという生協を設立した方がいた。徹底的に消費者目線でこだわった生協だ。その方と、10年前に、何かの集まりで知り合い、いちど、童仙房へ来て頂いたことがある。その後、たがいに連絡をとることもなく、10年経ったその日に突然、電話があった。

大阪で、同じようにアルファコープという生協を設立し、組合員の子どもたちの教育活動を展開している。教育といっても、お勉強ではない。自然のなかで農業生産にかかわるセカンドスクールような活動を信州で長年継続してきたが、遠いので、関西圏でフィールドを探しているとのこと。私は京大との関わりができつつある話をし、一緒にどうですか、と誘った。すると、「それはすばらしい!。ぜひとも」と。

4月に、アルファコープの教育活動グループが8人、童仙房へ来て、童仙房の役員たちと会談をもった。童仙房は、スーパーウェルカムである。ちょうど小学校の校舎が廃校となってあいたので、ここを拠点として、京大と生協がそれぞれ、地域と活動していく。京大が教育学部なら、生協も教育活動である。京大と生協も会談し、意見交換した。

生協の活動は、生協職員の担当者を核として、組合員の親からなる実行委員会とスタッフ、さらに大学生等のリーダーがいて、参加者としての子どもたち(組合員の小学生、中学生)で構成されている。生協が用意して組合員が参加するのではなく、組合員の親たちが中心となってつくっていく活動であった。自ら計画し、自ら運営していくという意味で、たいへん生涯学習的な活動であった。

生協は、この活動を「がっこう」と呼んでいる。「学校」ではない。全く別ものだ。だから、ひらがなで表記する。発音は同じではないかと思うのだが、「学校」と「がっこう」がまぎれることは、不思議とない。

6月には、スタッフやリーダーが大勢来て、フィールドを視察した。8月には、童仙房内で畑をつくった。

11月3~5日の3連休に、2泊3日で「秋のがっこう」を廃校となった小学校校舎で開催した。生協の畑で作業したり、屋外でご飯をつくったり、童仙房の椎茸農家が栽培している椎茸を椎茸狩りしたり、キャンプファイアーをしたり、散策したり。もりだくさんの3日間だった。私は、アウトドアや野外活動をそれなりに経験してきたが、このような大人も子どもも一緒になって遊びたおす活動は初めてだった。私の第一子はまだ小学生になっていなかったし組合員でもないが、地元枠で特別に参加させて頂いた。「秋のがっこう」が終わり、家に帰ってから、第一子はしばらくぼーっとしていた。あまりに楽しく、あまりに充実した3日間だったらしい。

10年ぶりの電話を受けてから、8カ月であった。生協の活動が、童仙房でしっかりと立ち上がった。

翌2007年からは、年に2~3回、宿泊型の「がっこう」が開催された。2008年からは、童仙房内で、私有林を活動で使えることとなった。自然林(雑木林)を手入れしながら拠点作りをしていき、森の活動も加わった。

「がっこう」をやっていくには、スタッフたちが準備等でなんども童仙房に来る。日帰りのこともあれば泊まりのこともある。深夜までアルコールを飲みながらおしゃべりが尽きない。森の整備も、「がっこう」とは別で、有志が集まって進めた。この有志たちを私はこっそり「SWAT」と呼んでいる。森の中にテントを持ち込んで泊まり込み、整備活動をしたり、ご飯づくりをしたり、酒を飲んだりと、子連れのおっさん・おばはんたちが子どものようにわいわいと楽しく遊んで活動していた。

私の子どもたちも、「がっこう」そのものの他、「がっこう」以外の準備や整備、そしてSWATにも参加した。家族ぐるみである。ゼロ歳児でもクーハンに入れて森へ連れて行った。

生協の活動は、2022年現在も続いている。2年間、コロナでほとんど活動できなかったが、2022年には再開しつつある。初期のスタッフは入れ替わった。初期の子どもたちは、いまは大人になっている。

私の子どもたち4人は、完全ホームスクーリングで育った。他の人たちとの交流は、生協の活動によるところが大きい。生協の活動がなければ、そもそもホームスクーリングの継続は無理だったかもしれない。

話を戻そう。2006年、野殿童仙房小学校が廃校となり、野殿童仙房保育園が廃園となった。まったくブランクなく、廃校・廃園と引き替えに、京大と生協が来た。廃校前よりにぎやかになった。

京大へは私が動いた。あっというまに活動が生まれ、立ち上がった。同時進行で、生協の活動が立ち上がった。それにしても、生協が来たのは、10年ぶりの電話が発端だった。その電話が1年前なら何も起きなかった。1年後なら、京大と同時進行ではなかった。すでにできあがって動いているフィールドにあとから生協がはいってくる形になっただろう。なぜ、その年だったのか、なぜ、3月だったのか。だれもシナリオを描いてはいない。たんなる偶然なのだ。京大も生協も、あまりに展開が速すぎる。あまりにタイミングが良すぎる。どれもこれも、きっと偶然なのだ。そうだ、偶然なのだ。
 

 

2005年秋、童仙房の小学校(野殿童仙房小学校)の廃校が決定したのだが、統合小学校へわが子を通わせることはためらわれる。教育をだいじにする地域へ引っ越すか、オルタナティブ教育(シュタイナー学校のような学校教育外のスクールなど)の道を選ぶか。この時点で、ホームスクーリングはまさか夢にも思わず、検討対象ではなかった。

オルタナティブ教育の道は、容易ではないし、何より怖い。わが子をゆだねられる学校のある地域へ引っ越すのが現実的ではないか。決断するリミットまでは1年もない。

年の暮れが迫った12月中旬、妻がおもしろい冗談を言った。「京大の教育学部にたのんで、童仙房に小学校をつくってもらったら? 廃校跡をつかって」

こんなバカげた冗談にかかわっているヒマはない。のだが、現実は煮詰まっている。荒唐無稽な動きでなんらかの思いがけない道が開かれるということはあるかもしれない。私が童仙房に移住する前に勤めていた会社の社長が京都大学教育学部の出身だ。ざっくばらんに、冗談を伝えてみることにした。

12月30日、社長のご自宅を訪れた私は、別室へと招かれた。社長が手にした封筒をみて、状況を理解した。年の瀬に「相談があります」といって自宅を訪れたことで、お金に困って年を越せないという相談だと思い、いくら入っていたのか知らないけど封筒を用意してくださっていたのだ。たしかにそう解釈してしまうような訪れ方だった。冗談を伝えに言ったら別の笑い話があったというオチで、のっけからこけている。

いやじつは・・・と話を切り出すと、「そんなもん、京大が動くわけないやろ。あんたにもそんぐらいわかるやろ」ときわめてまっとうなリプライ。でもつづけて、「ちょっと待てよ。むちゃくちゃな話はきらいではないんで、正月の間考えてみる。宿題にしてくれ」

かつて、他のママさんたちから妻が、「どうしてダンナさんはパチンコもギャンブルもやらないの?」と聞かれて、「人生がギャンブルだから」と感動的なセリフを返したことがある。思えば、社長も同類だったのだ。

年が明けてすぐ、社長から電話があった。「あの件をずっと考えていたけど、ふさわしそうな教授を思いついた。会いにいってみるか?」とのことで、もちろん「ぜひ!」と瞬答。1月10日に、京都大学大学院教育学研究科の教授(生涯学習専門)の研究室を、社長と2人で訪問した。

2004年に国立大学が法人化されたことは、とうぜん知っている。そのために競争に勝ち抜くための「経営」をしなければならなくなったことも知っている。あの東京大学が初めて大学案内の冊子を作ったことも知っている(法人化前には、東京大学は大学案内が必要なかった)。国立大学にとって、明治維新か戦後民主化なみの大変革だった。

京都大学も、何かを考えなければならないはずである、たぶん。山の上の廃校跡に不登校児を念頭に置いた新しいタイプの学校を提案した。教授は、「おもしろいですね。ちょうどフィールドを探していたところです。なにか考えてみます」とのこと。研究室を出て帰路についた社長と私は、何が起きたか理解できなかった。なぜ、門前払いではないのだろう?

たてつづけに、研究室を訪問した。教授は、不登校という限定された枠組みではなく、だれもが対象となる生涯学習でフィールドを立ち上げてみたいとのこと。教授会で検討し、学部全体として取り組むことにおおむね賛同を得たとのこと。天地がひっくりかえるほど驚いた。私の子は不登校ではない。わかりやすいテーマとして不登校をあげたが、限定しないほうが、私にもありがたい。

初めて研究室を訪れて1カ月後には、大学院生を対象に、童仙房の紹介をプレゼンした。

3月2日~3日にかけて、京大グループが童仙房を訪れた。野殿童仙房小学校はまだ廃校前である。土曜日なので授業はないが、校長先生がいらっしゃったので、許可を得て、校舎内を見学させて頂いた。いきなり京大教授と大学院生たちが訪問したことで、校長先生はひどく緊張し、警戒されたようだ。

野殿童仙房小学校のすぐ裏手に、第一子が通っていた野殿童仙房保育園があった。この保育園も、同時に統合により廃園となる。保育園は外からの見学だった。

夜、一行は、童仙房にある民宿「童仙房山荘」に宿泊した。童仙房の役員たちに来てもらって、京大と地域の初顔合わせとなった。地域側は、廃校によって地域が衰退することを怖れていた。だから、京大が来てくれることはスーパーウェルカムだった。この時点で、どんな活動をするかは具体化されていなかったが、地域側は、何でもいいからゴーゴーという感じだった。

もう、障害はない。

3月3日に京大グループが京都へもどり、3月7日には、京都大学大学院教育学研究科長(いわゆる学部長)名義の、廃校跡地利用要望書が村長宛に作成され、私が受け取った。翌日、童仙房区長へ手渡し、その翌日、童仙房区長と野殿区長が村長宛に提出した。

ここまで、私が初めて研究室を訪問して2カ月たっていない。

村長は対応に困ったようで、返事が無かった。童仙房区長は、「村が動かないなら自分らでやる」といって、廃校後に学校の鍵をあずかった。

4月から廃校となり、4月29日には、廃校となった小学校の教室で、寄合が開かれた。京大グループと地域住民の顔合わせだ。地域住民は、京大が地域を活性化してくれることを熱望した。教授は、そのようなニーズには応えられないと言った。地域とともに相談しながら、できることをやっていこうと。

その場で、地域(童仙房区と野殿区)と京都大学大学院教育学研究科が協働して活動していこうともりあがり、野殿童仙房生涯学習推進委員会という組織を立ち上げることが決まった。大学と地域が協定を締結するときは、地域の側はほぼ例外なく市町村である。我々のケースは、村ではなく、自治会である。

6月23日、小学校体育館で、野殿童仙房生涯学習推進委員会の発足調印式が開催された。京都大学大学院教育学研究科長、童仙房区長、野殿区長が協定書に印を押す。研究科長(学部長)さんが、遠路、童仙房まで来てくださった。新聞各社にプレスリリースしておいたので、各社が取材に来てくれた。翌日は各紙に掲載された。この調印式には、どこからも予算が出ていない。まったくの手作り調印式であった。

私が初めて研究室を訪れてから、半年たらずであった。あまりの急転回ぶりに、めまいがしそうであった。