第一子が小学4年生になると、第二子は1年生になり、ホームスクーリングの仲間入り。第三子は4歳、第四子は2歳だ。

第二子、第三子は生まれた時から怒濤のように読み聞かせをしてきたので、言葉の習得は一段と早かった。第三子が生まれるころには、昔話の重要性に気づいていたので、読み聞かせは昔話に特化しつつあった。だからだろう、第三子の言語能力は一段と高かった。第四子は家庭の事情で幼少期の読み聞かせがややおろそかになった。同じ親の4人の子どもたちでも、読み聞かせに大きな濃淡ができてしまっている。ひとえに、親の未熟さ故だ。申し訳ない。

今日は、学習マンガについて、書いておこう。村の図書室もよく利用した。子ども向けの世界の伝記マンガが多数あり、子どもたちが気に入って、よく借りていた。そんなに好きならと、ヤフオクでまとめて購入した。家にあると、同じ本を繰り返し読む。有名どころの人は、すっかり理解してしまった。すると、世界の歴史にも興味が湧いてくる。世界の歴史や日本の歴史の学習マンガも数種類ずつそろえた。

伝記マンガは、いくつかの出版社からでているが、超有名な人は、どこのラインナップにも入っている。たとえば、マリー・アントワネット。フランス国民が苦しんでいる時に贅沢の限りを尽くし、フランス革命時にギロチンにかけられた「悪女」と言われることが多い。飢えている国民に「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」とトンチンカンなことを言い、怒りを買ったというエピソードも有名だ。伝記となれば、主人公を良いように描く。それでも子どもたちは伝記マンガを読んで、良い人とは思えなかったようだ。そして、数種類のマリー・アントワネットを読むと、それぞれ視点が違う。「パンがなければ・・・」は本当はマリーの言葉ではないという事実もわかってくる。

伝記マンガは脚色が強いが、数種類を読むことで中和されるようで、そうなると伝記マンガに書かれていることのすべてが史実ではない、人物評価も正当とはかぎらない、ということが幼い子どもにもわかってくる。

伝記マンガは他の子どもたちにも人気のようだ。だからたくさんの商品が作られ、図書室・図書館の定番にもなっていくのだろう。わが家に遊びに来た子どもたちは、伝記マンガに興味をしめしたり、その場で読み出したりする子がわりと多いようだ。

伝記マンガにつづいて、科学のマンガ、古典のマンガ、文学作品のマンガなども多数購入した。数百冊になると思う。小学館のドラえもんの教科学習マンガシリーズも40冊ほど購入した。

勉強の導入のきっかけという意味では、学習マンガも良いと思う。学習マンガだけで勉強になる、ということは無理だが。

たかしよいちさんの科学のマンガはすごくいい。科学的な思考のプロセスをマンガで表現している。

古典マンガも複数種類を購入した。源氏物語でも、マンガなら幼い子どもが読んで理解できる。あらすじや登場人物は自然と理解している。宇治橋を渡った時、「ここから浮舟が身を投げだんだね」と生意気なことを言っていた。古典は古典として読んだ方がいいのは当たり前だ。文学作品もオリジナルを読んだ方がいい。だからこそ、面白そうだからオリジナルを読んでみたいという動機を学習マンガがつくってくれるという側面を評価してもいいと思う。

いろんな学習マンガを購入し、子どもたちは非常に多くの学習マンガを読んできた。やはり、伝記マンガは良かったと思う。

スティーブ・ジョブズ、ディズニー、安藤百福など、現在その商品が主流となっているような人たちもラインナップにいる。ジョブズやディズニーは超成功者と思われているだろうが、うちの子どもたちからの評価は芳しくない。ものすごい実績を残した人でも、人としては欠陥や欠点が凡人以上に多かったりする。あまり良い人はいない、ということがわかってくる。偉い人たちのような人間にはなりたくないと、子どもたちはよく言う。

ヒトラーのマンガもある。超悪人だろうが、不遇の子ども時代はよくある話ともいえるし、同情すべき点もある。生まれた時から超悪人ではなかった。しかし、途中のどこかで大きく歯車が狂う。その有様は、現在のわが国にも重なる。ということでも子どもたちにわかってくる。悪人という単純なラベリングは適切ではない。

ポプラ社の日本の伝記シリーズは後発なだけにすばらしい。学術研究をふまえ、正確さを期している。第三子が特に好きで、全巻購入してきた。これを読むと、日本の歴史にめっぽう強くなる。

学習マンガは図書館や図書室に多数そろっているはずだ。積極的に利用したらおもしろいと思う。勉強は勉強としてやらないといけないが、勉強は楽しいかも、というモチベーションがはぐくまれたりするかもしれないが、そんな下心を親がもっていると子どもにみすかされてうまくいかないかもしれない。やっぱり学習マンガもマンガとして楽しんだらいい。そういえばわが家でも、子どもたちが読みたがるから買った、というだけだった。
 

 


私は昭和39(1964)年生まれだ。東京オリンピックが開催された。東海道新幹線が開通し、東名高速・名神高速が開通し、最初の大規模ニュータウンである千里ニュータウンができた。戦後のエポックともいえそうな年だ。

私より年配の方に、「子どもに書き写しをさせている」というと、半分くらいの方が「それはいいことをしている」といった反応をする。私より若い人たちに同じことを言っても、ポカンとして、「それって何の役に立つのですか?」といった反応をする。私の世代の前後で断絶がありそうに見える。

かつて人類は書き写しを、世界中で大勢の人がふつうにしていた。印刷技術がなかった頃は、手で書き写すしか、本を複製できなかった。文学作品も、聖書や仏教経典などの宗教聖典も、行政文書も、どんどん書き写した。印刷技術が普及すると、書き写す理由がなくなったので、複製づくりのための書き写しは衰退した。

戦後、コピー機が普及すると、ちょっとした文書も断片も簡単に複製がつくれるので、書き写しの理由がさらになくなった。私が小中高生のころは、まだコピー機が普及していなかったが、大学生の当時、いっきに10円コピーが普及した。ノートも教科書もコピーする。あれもコピー、これもコピー。さらにパソコンとスキャナやプリンタが普及すると、手書きそのものが衰退した。

中高生が英語の予習をするとき、ノートを見開きで使い、左ページに英文、右ページに和訳、というやり方が一般的ではないだろうか。そのさい、左ページの英文は教科書そのままなので、手で書き写すと時間がもったいない。教科書をコピーして貼り付けておくのが効率的だ、という人もいる。

他人のやり方にケチをつけることは極力控えたいが、その考え方には強烈に異を唱える。英文を書き写すことこそ、基本中の基本で、どんな勉強よりも大切なのだ。

うちの子は、それぞれ英検に合格している。
  第一子  19歳で2級         現在21歳の大学生
  第二子  中3で準2級、高1で2級  現在1浪の受験生
  第三子  中3で準2級と2級      現在高2
  第四子  中3で準2級        現在中3
第一子が19歳なのは、それまで英検を受けることを思いつかず、第二子が2級を受ける時に同時に受けたからだ。みな、1度で合格している。

子どもたちが英検に合格したのは、ほぼ基礎英語がすべてと言ってよい。ほかに特別なことはやっていない。小学生高学年あたりから、それぞれ、基礎英語をやった。それも独学だ。ダイアログの英文を何度も繰り返して読んで暗唱する。何も見なくても言えるようになる。その英文を何度も書き写して何も見なくても書けるように練習する。すべてのレッスンでこれをした。落ち着いて考えて欲しい。これをするのに、特別な能力や生まれつきの才能はいっさい不要だ。ただ、やるだけだ。だれでもできることだ。第二子は「基礎英語だけで英検2級に合格できた」と言っている。だれにでもできる学習法であるばかりか、お金も極端に安い。毎月テキストとCDを買っても2千円ほどだ。あまり言うと塾に怒られそうだからこのぐらいにしておこう。

基礎英語を終えた後、『速読英単語』という教材をつかって、同じことを繰り返した。覚えるまで読む、覚えるまで書く。基礎英語と『速読英単語』を終える頃には、かなり英語力がついている。英語の本を読んだり英語で文章を書いたり、それぞれがしている。第二子は様々な国の若者たちと文通(手紙)をしている。第三子は『ハリー・ポッター』『ナルニア国物語』などの英語の原書、好きな推理小説の原書を多読している。第四子も原書を読んでいる。

それぞれ、英語をだれからも習っていない。学校にも塾にも行っていない。まったくの独学だ。読むことと、書くことの蓄積。これが大きな力なのだ。

私が中学生ころまでは、書き写しが良い勉強になると言われていた。中3の頃、朝日新聞の天声人語を毎日書き写した。当時は天声人語からひんぱんに入試問題がつくられていた。高校生の頃も、新聞や文学作品を書き写した。

大学生になって、「3000枚書き写すか創作を書くかすれば、文章で困らなくなる。文章で仕事をしていける」と、どこかで読んで、一念発起、原稿用紙を3000枚買った。ダンボール箱に入っていた。大学生協のおっちゃんが、「小説家にでもなるんか?」と聞いてきたほどだ。そして、毎日数枚から十数枚ずつ文学作品を書き写した。1600枚まで書いて、就職し、書き写しは中断した。子どもの頃からトータルすれば、3000枚はクリアしているはずだ。あまり真面目な大学生とは言えなかったが、書き写しは財産となっている。このとき書き写しをしていなければ、人生は大きく変わっていた。

人々は古来、必要があって書き写しをしていたが、今はその必要がなくなった。だが、書き写しをすることには知性を磨く作用があり、そのことは「必要」の陰に隠れていた。

これからは、デジタルの時代だし、しっかりスキルをみがいてどんどん活用すべきだ。そこに異論をはさむ人はあまりいないだろう。でも、デジタル化すべき事柄と、すべきでない事柄は仕分けした方がいい。少なくとも、知性を磨く作業は自分の身体でおこなった方がいい。身体で知性を磨けば、その知性はデジタルの活用にも生きる。

今後、デジタル化が進むほど、身体で知性を磨く意義は見えにくくなっていくかも知れない。だとすれば、身体で知性を磨くことを積み上げた者は勝ち組になっていくのではないか。と私は確信している。わが子を勝ち組にしたければ、書き写しの効用は黙っておいたほうがいいのかも知れない。正直言って、そういう考え方は好きではないのだが、耳を貸そうとしない人たちに無理に言って聞かせるのはおこがましい。やめておこう。
 

 

 

2007年4月から、わが家のホームスクーリングが始まった。第一子が小学1年生、第二子が4歳、第三子が1歳。第二子、第三子も保育園には行かず、在宅保育だ。第四子はまだ生まれていない。

自分の人生を自分で生きていってほしい。そのためのホームスクーリングだから、管理をしすぎては本末転倒になる。そこで、なるべく管理をしない形でどこまでどうなるか、やってみる。

早期教育に熱心な親が多いが、私は否定的だ。土台さえ作れば、時が熟せば伸びる。土台が弱ければいくらたたきこんでも、そうは伸びないだろう。たとえば、お金に余裕のあるご家庭が、子どもの幼い頃から塾や習い事をどんどんやらせて、惜しげもなくお金をつぎ込んで、大学進学時点では・・・ということは、わりとよく見る光景ではないだろうか。その子の才能不足なのではなく、土台不足なのだ。

そもそも、わが家では受験や進学を目標とはしていない。もっと大きく、人生なのだ。

小学生の勉強は、あわてない、あわてない。

漢字と計算は、ボチボチでもやったほうがいいだろう。計算プリントを毎日パソコンで印刷した。1日1枚ずつが目安。計算のしかたは、進研ゼミとパソコン用学習ソフトで理解できるだろう。漢字の練習も毎日すこしずつでもできたらいい。

が、あまりやらない。第一子は、狭義の勉強がきらいなようだ(広義の勉強は大好きだが)。算数と漢字は、大嫌い。無理強いしないでいると、ほんとうに、やらない。ホームスクーリングで無理強いするくらいなら、学校へ行った方がいいのではないか、と考えて、がまんした。教育や子育てで最も重要なのは忍耐ではないかと考えてきたが、さすがにこの時は強く実感した。

子どもが親の思い通りにならないとき、つい口出ししてしまう親は多いだろう。その気持ちはよくわかる。でも、口出しはなるべくしない方がいいに決まっている(自主性を育てたいなら)。それには、忍耐がいる。

勉強はした方がいいに決まっている。でなくて、しなければいけない。では、子どもが嫌がってやらないとき、どうするか。永遠の解決できない悩みかもしれない。

第一子が小学5年生までは、親は耐えた。耐えた、ということは、第一子はほとんど勉強しなかったというわけだ。漢字、計算をはじめ4科目とも。

小学4年生からは、学習する内容に抽象概念が増えてくる。簡単に言うと、目に見えないことがらだ。昔のこと、未来のこと、遠い世界、地球や宇宙、身の回りにいない生き物、ミクロの世界、おはじきや計算棒でできない計算、理論、因果関係など。それに対して小学3年生までは、ほぼ目に見える具体的なことがらを扱う。だから、小学4年生からは、明確に差がつき始める。抽象概念を扱う力が弱いと、この差は拡大する一方で、追いつくことも埋まることも期待しづらい。抽象概念を扱う力は、学校のカリキュラムでは習得できない。幼少期からの土台づくりがすべてだ、と私は考えている。

第一子が5年生までほぼ勉強しなかったということは、絶望的な落ちこぼれ状態だ。もし学校へ行かせていてこの状態だったら、回復はできないだろう。だがわが家はホームスクーリングだ。

第一子は、土台はじゅうぶんできているはずだ。生後6カ月からの、どとうのような読み聞かせ。3~4歳ごろには、読み聞かせによって覚えてしまった絵本の文字を自分でなぞって読もうとしだした。5歳ごろには自分で本を読んでいけるようになった。6歳ごろには、読み物をどんどんと読むようになった。小学生になると、大人が読むような本でも読むようになった。読むことを強いたことはない。そこから先は、本はかなり読んだ。生き物が好きだったが、様々なジャンルのものを読んだ。第一子のころは、読み聞かせの際、昔話に重点を置くことに気づかなかったが、自分で読むようになってからは、昔話の読み物(子ども向けも大人向けも)を多数読んだ。

わが家が主張する土台づくりは、読むことと書くこと。これに尽きる。

書くことは、本を書き写す、これだけだ。第一子が小学1年生から始めた。毎日、原稿用紙1枚、本を書き写す。最初は、子どもに本を選ばせた。小学生高学年以降は、文豪の文学作品を書き写したが、それ以前は、本の内容は問わなくてもいいと思う。書き写すことなら、だれでもできる。能力も問わない。書き写しは絶大な効果があることを、わが国の先人たちが示してきた。現代は、そのことが忘れられているようだ。

第一子は書き写しも嫌いだった。なかなかやりたがらない。

すべての勉強を捨ててでも、書き写しは重要だ。書き写しは、少しだけ強いた。だから、漢字や計算ほどサボりはしなかったが、やったりやらなかったりで、2日に1枚ぐらいのペースだっただろうか。

書き写しについては、ピンとこない人も多いだろうから、未来を先取りして答え合わせをしておこう。落ちこぼれのはずの第一子は、国立大学に合格した。合格した時、書き写しをしてきたことについて聞いてみた。「書き写しがなかったら、自分がなくなっちゃう」と名言をはいた。第一子は、中学生以降、書き写しのペースをあげたので、これまでに5000枚以上書き写しただろう。第二子も中高生で落ちこぼれ状態だったが、国立難関大学を目指して1浪中で、「書き写しがなかったら、挑戦することすらできなかった」と言っている。第三子は最もたくさん書き、勉強のブランクが皆無だった。読んできた本の量は想像を絶する。中学生からは専門書でも読んでいた。中3時点で模試の成績がすごかった。京大現役合格の私の同じ年とくらべても第三子が大きく上回っていた。現在高2年齢で、さらに模試の成績が上昇している。読むことと書くことの土台づくりによるものだ。第四子はスタートが遅れ、勉強しだしたのは小学3年生ごろから。読み聞かせも幼少期には貧弱だった(親の責任)。小学1年生から読み聞かせを取り戻し、書き写しも順調に積み重ねた。現在中3。私の同じ年とくらべて同等の成績だ。

そもそも、大量の読み聞かせと書き写しがなかったら、独学など不可能だっただろう。書き写しの重要さはいくら強調してもしきれない。が、不思議なことに、理解されない。書き写しを蓄積せずに勉強をしていくのは、ずいぶん遠回りをしているように見えてしまう。

逆に言うと、勉強で悩んでいるご家庭にとっては、3点リードされた9回裏ツーアウト満塁フルカウントからの代打逆転満塁サヨナラホームランになるかも知れないのだが。