命が生まれる、、、
ってどういうことだろう。
ん〜、、、
"生まれる"という言葉よりもっと合う言葉がある気がするのだけど。
一応自分の感覚の範囲で地上を見渡してみれば
なんとなく
予兆というものをロジカル的にもってくる。
たまごとかおなかの膨らみとか営みとか。
のだけど、
まぁそうやってロジカル的にもちだしてきても、
結局それがなんなのかは全くわからないわけで 笑
ただ、
見渡して自分が学んできた記憶とか体験、聞いた話、見たもの、現状得られる情報、、、
の結果、
命はなんとなく
営みとかたまごとかおなかの膨らみとか
そういう結果に誕生する、、、
っていうストーリーを
なんとなく
そーいうもの
ということで
ここに自分もいる、、、
て感じだ
のだけど、
ほんとに広い広いこの世界、
わたしの小さな世界を超えたすぐ近くのその広い世界では、
命はどうなんだろう。
まぁ
命が生まれる、誕生する、
っていうことを
どの状態を示してるかにもよるだろうけど。
命は"生まれる"前からずっと在って、
天空から天使としてたまごに宿る
そんなお話も聞いたことあるし。
やっぱりなにかわからんけど、
とても大きな存在を見いださずにはおれない。
大きいのだけど、五感でキャッチできる大きいってのとはまた別な感じの、、、
というよりは五感でキャッチできるのはその大きさの内の少しって感じなのかな
まぁ、精神的な話は少しおいて、
物質的に、肉体が現実的に現れる時
もし、それが突然だったらどんなだろうか。
やっぱり理由を求めるだろうか。
この命はどこから来ただろう?
わたしはどうして生まれただろう?
わたしと関係がある命はあるだろうか?
とか考えたり、思ったりするのは
わたしがこの現実にいるからなのであって、
もし
命が突然生まれる世界だったなら、
そこに現実的な理由や原因は考えない、、、
のかもしれない。
いや、やっぱり生命の起源への好奇心は尽きないのかもしれないけど
なんとなくね、
自分は
自分の人生というものの土台というか行き先、落ち着くところ、ある意味ではレール
それを親と子の関係に見いだそうとしてる気がして。
なにがあっても、
その親子関係、母子関係、父子関係に精神的にもどれば
ゼッタイ的に安心できる、、、
的な。
わたしは過去を日常と言ってるけど、
その日常というのは、
そもそもの親子関係なんじゃないかと思って。
なにが起こっても、
そこに精神的に帰れば、
ゼッタイ的に安心できる場所
親と子
、、、のだけど
どこかそれがあるから苦しくなってる自分もいて。
自分がこれほどまでに執着してしまうのは、
その親と子の関係を手にしたいからと思い込んでるからでもあって。
ほんとはそんなものはこの地上のどこを探したって見たってないのだろうけど。
見たと思って、見つけたと思って、
感じる安心があるのは
やっぱりどこまで行っても
わたしの中。ここ。
だから、
なんか、そもそもわたしは
生命の誕生になんかくっつけて、大きくしすぎちゃってんじゃないかな。
いんだよ、突然生まれて。
その命に関わりのあるものがなにもなくてもいいわけ。
その命が生まれた理由とか条件とか過去とか原因とかプロセスとかも
別になくていい。それらが何であってもなんの問題もない。
説明もいらない。
んーあんまおもんないなこのストーリー 笑
いや、まぁそうだとして。
自分は人だけど、
親を通して生まれなかった、として。
だから、親と子、という悠久だと頑なに信じて手放さなくて、
それさえあればゼッタイ的に安心だと信じ込んじまってるその関係
にチカラなどなく
に安心などホントはなく、
それでも残った自分というものが
"生きている"のはどうしてだろう。
なんで
わたしはここにいるんだろう。
わたしの見ている全てはいったい何なのだろう。
愛。
それを抜きにしてはここにいることはできない。
命がどんなプロセスを経て"誕生"しようが、
やっぱりそれは
親と関係なくても、現実的に何の関係がなくても
そういうのを超えた、何というかもっと大きな存在の愛ゆえ
なんだろうな。
プロセスとか理由とか原因一切関係なくて、
わたしが今いるのは愛
そういう見方をすれば、
昨日だと信じ込んじまってる昨日までなどどうでもよく、
今もこうしてここに在って、
その愛に満ちた命でなにをしようか、
ということになってくる。
考えてる間に
それを考えてる必要が全くなくなっていく。
しがみついて留まって考え続けるのはよくやってきたなぁ 笑
おしまい。