東京・八幡町壱弐山車(八王子まつり) | 神社に隠れていたモノ

神社に隠れていたモノ

神社の彫刻を見て、何の物語か教えてほしいと思ったことがあり、調べた結果をブログします。タイトル「神社に隠れていたモノ」は覆屋の中にこんな素晴らしい彫刻が隠れていたのかという思いから付けました。

2023年8月6日 八王子まつりを見に行きました。

 

八王子まつり

八王子まつりは江戸時代から継承されていて、八幡・八雲神社の祭礼を「 下の祭りしものまつり 」、多賀神社の祭礼を「 上の祭りかみのまつり 」として親しまれています。現在二十台の山車(八幡町会は山車を2台保有し年毎に交互に参加)が八王子まつりに参加しています。毎年8月の第一金曜を初日とする3日間に行われます。

 

 

八幡町壱弐山車

江戸後期に建造の八幡町旧二丁目の山車は八王子最古です。明治二十二年以来の全面大改修が行われ、山車人形「諫鼓鳥」(かんこどり)が令和元年八月三日夜、およそ百年ぶりの立ち上げを行いました。山車人形の諫鼓鳥は文政二年、八幡町在住の彫刻師 牧田巳之助氏の作と伝えられています。

 

鬼板:龍 懸魚:鳳凰

 

唐破風下:浦島太郎

 

囃子台の奥:昇龍・降龍

 

右面の後部楽屋:楠木親子桜井の別れ
鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇は天皇親政の律令政治を理想とした建武の新政を開始した。しかし、武士階級の不満を招き、足利尊氏が離反し戦となった。足利尊氏軍勢約50万に対し、総大将:新田義貞の朝廷軍約5万と圧倒的な戦力差があり、楠木正成は和睦や兵糧攻めを策を提言したが朝廷を説得できず、死を覚悟して湊川の戦いに赴いた。その途中、桜井駅で正成は11歳の嫡子・正行に対し「生き残って、いつの日か朝敵を滅せ」と諭し、後醍醐天皇から下賜された菊水の紋が入った短刀を授け、今生の別れを告げたという。


 

左面の後部楽屋:不明 (鎧の形状からすると日本の武士みたいだが?)

 

脇障子:竹林の七賢
中国 晋の時代(三世紀後半)は世が乱れて、役人達には汚職がはびこり、腐敗していた。竹林の七賢とはこれを嘆いて政治から身を引いて隠遁し、洛陽の竹林に集また七人の賢者のことをいう。彼らは心の赴くままに酒を飲み、詩を作り、楽器を奏でたりしながら、清談するという日々を送ったという。この時代、社会への批判は権力者によって簡単に命を奪われてしまう時代であり、彼らの世俗から超越した生き様は腐敗した社会に対する抵抗であり、当時の知識人の精一杯で命がけの批判でもありました。

残り3人は背面にいたと思うのだが、シートが掛けられていて撮影できませんでした。

 

 *** 八幡町会は山車を2台保有し年毎に交互に巡行しています

 

コメント:山車が巡行するため、斜めからしか撮影できなかった。また、この日は雨が降ったり止んだりしていたため、雨除けのビニールシートがかかっていて、撮影できない場所がかなりあった。

 

***  神社と彫刻のリスト  ***