2023年4月19日 新潟県魚沼市大浦の赤城山西福寺 開山堂に参拝しました。
彫刻が多いため、3つに分けて掲載します。
開山堂を拝観するには庫裡から入ります (入場料500円)
鬼退治の仁王像
天井に「道元禅師猛虎調伏の図」(大きさ約5.5メートル四方)、周囲の欄間などにも彫刻がされています。
天井:道元禅師猛虎調伏の図
道元禅師に関する奇瑞説話の一。中国留学中の道元禅師が、径山に拝登するとき、虎が現れたので、手にした錫杖を投げつけたところ、その杖が龍と化して虎を追い払ったという。
正面の欄間にも道元禅師の説話の彫刻があります。
永平寺血脈池縁起
波多野出雲守義重が越前を治めていた時、オキチという美しい女性を侍女として使えさせていました。義重の夫人はこの女性に嫉妬し、その女性を深い池に沈め、殺しました。侍女は殺された恨みから成仏できずに夜な夜な池のほとりに現れました。義重公から相談を受けた道元禅師が、池のほとりで幽霊に血脈を授ずけ供養をすると、幽霊は両手を合わせ安心して成仏したという。その後、義重公は道元禅師を越前に招き、道元禅師は大仏寺を開いて、二年後に「永平寺」と改称します。
* 血脈とは、お釈迦様が説かれた尊い教えを受け継いできた修行僧の系譜を記したもの。仏教徒になった証しとして戒名と血脈を授けていただくという。
* 侍女が沈められたという池(血脈池)が永平寺から東に約2kmの場所にあります。
両手を合わせる幽霊
道元禅師と白山大権現
道元禅師は留学先の宋から帰国する前夜に、禅宗第一の書とされる碧巌録を見つけます。道元禅師が急ぎ写経をしていると、白山妙理大権現が現れ、写経を手伝ってくださり、一夜のうちにすべてを書き写すことができたという。
道元禅師と稲荷神
道元禅師が在宋中のこと、旅の途中で重病になり倒れてしまいました。その時、ひとりの老人が現れて一丸薬を木下道正に与え、道正がこれを道元禅師の口に入れると、たちまちに道元禅師は回復されました。この老人は、道元禅師を救うため現れた稲荷神だったという。そして、道正は稲荷神に一丸薬の製法を伝授してもらい、帰国後、木下道正は日本で一丸薬を製造・販売したといいます。
正面の須弥壇の下には文覚上人の彫刻があります。
袈裟と盛藤
文覚上人は、元々は京都の武士で、遠藤盛遠といった。若かりし頃、従兄弟で親友である渡辺渡の妻・袈裟御前に横恋慕し、自分と一緒にならねば、袈裟御前の母親を殺すと脅した。すると袈裟御前は、それならば夫を殺してくださいと言い、盛遠に夫が眠る位置を教えた。深夜、盛遠は渡の寝所に忍び込み、暗闇の中、渡を殺害し、首を抱えて逃げた。しかし月明かりの下で確認したその首は、袈裟御前のものでした。袈裟御前は己の貞操を守るため、盛遠に嘘を教え、自らの命を犠牲にしたのでした。その後、盛遠は自分の罪を悔やみ出家し、文覚と名乗るようになった。
文覚上人の荒行
文覚上人が那智の滝に打たれて修行をしていたが、意識を失って流されてしまった。そこに大聖不動明王から使わされた金迦羅と制多伽という二童子が来て、上人を助けた。上人は大聖不動明王から期待されていると感激して、いっそう修行に励み、大峰・葛城・高野・・・富士山、伊豆、信濃の戸隠、出羽の羽黒など全国霊場をまわり、「刃の験者」と呼ばれるに至ったという。
滝に打たれる文覚上人
文覚上人を見守る金迦羅と制多伽
後白河法皇の院宣 (文覚上人と"書面"からの推測。違うかも)
文覚上人は後白河法皇から平氏打倒を命じる院宣を出させるように迫り、源頼朝に院宣をもたらした。このことが源頼朝が挙兵した要因になったという。
コメント:2022年12月~4月28日まで寺内の撮影可となっていたため、参拝しました。2022年7月~9月末にも撮影可だったため定期的に撮影可となるかも。非常に大きな彫刻で、色もはっきりしていて素晴らしい。