埼玉県・指扇氷川神社 | 神社に隠れていたモノ

神社に隠れていたモノ

神社の彫刻を見て、何の物語か教えてほしいと思ったことがあり、調べた結果をブログします。タイトル「神社に隠れていたモノ」は覆屋の中にこんな素晴らしい彫刻が隠れていたのかという思いから付けました。

2023年3月31日 埼玉県さいたま市西区指扇の指扇氷川神社に参拝しました。

 

由緒

指扇氷川神社の創建年代等は不詳ながら、日本武尊東征の際に一宮氷川神社の分霊を当村の守護神として祀り創建したと伝えられ、指扇領七か村の総鎮守として崇められたといいます。明治維新後村社に列格、明治40年に指扇領別所宮脇の別所八幡神社を合祀、明治43年までに村内の八社を合祀しています。

 

鳥居

 

拝殿

 

玉垣と本殿

 

本殿

 

右面の胴羽目:馬師皇
馬師皇は、黄帝の時の馬を治療する医者であった。馬の形氣や死生の脈を理解しており、馬を診させると間違いなく治癒させてしまった。あるとき龍が天より降りてきて、口を大きく開いてみせた。馬師皇は龍の下唇に鍼を打ち、甘草を煎じて飲ますと、龍の病はまもなく治ったということです。

 

背面の胴羽目:玉巵弾琴
玉巵は西王母の娘で、太真王の夫人であった。玉巵は琴の名人で、一弦琴を弾ずれば、百禽の鳥が飛来したという。また時には、白龍に乗り四海を周遊したとも伝えられる。


左面の胴羽目:夏禹王? (船に乗っていないため違うかもしれない。 晃石神社に似た構図があります)
大禹は黄帝の玄孫である。黄河の洪水を治め、その功績により帝舜の譲禅を受けて帝位に着きました。その後、中国全土を九つの州に分け、貢税の方法を定めた。禹王が南方を巡察して船で長江を渡ったとき、水中から黄龍が現れて、黄龍が舟を背負った。乗船していた人は恐れ泣き叫んだが、禹王は笑って、「我、命を天に受け、力を竭して万民を労る。生は寄なり、死は帰なり。何ぞ以て和を滑すに足らん」(訳:我は天から命を受け、力を尽くして万民を労わる。生は一時、身を預けているに過ぎず、死は本来の場所に帰ることである。生死で心の調和を乱すことなぞない。)と云い、剣を抜き放った。黄龍はその威を恐れ、首を弭れ、尾を低くして去って行ったという。

 

右面の脇障子:鳥

 

左面の脇障子:鳥

 

正面の扉:牡丹と獅子  正面の扉両脇:昇龍・降龍

 

コメント:胴羽目3面とも”龍”に関する彫刻。3面とも龍の周囲に"波"がありますが、馬師皇は宮廷で働いていたはずなので、違和感があります。

 

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