2022年12月7日 埼玉県熊谷市冑山の冑山神社に参拝しました。
由緒
冑山古墳は、直径90m、高さ 11m、墳頂の標高 51m の円墳で、県指定史跡になっている。武蔵国造の墓との伝説があり、江戸時代初期の慶長17年(1612)村人が塚を穿ち、石郭から甲冑、鏡、太刀など掘り出したが、祟りを恐れて埋め戻し、八幡社を勧進したという。付近一帯が根岸家の所有地で、墳頂に鎮座する現在の社殿は宝暦2年(1752)根岸家が建設し、私祭していたが、明治時代神社合祀令が出たとき、八幡社を含めた社地を寄進、山王社、天王社を八幡社下に遷座して、いまは村管理の冑山神社になっている。熊谷市指定有形文化財。
鳥居
拝殿
拝殿の裏にさらに階段があり、その先に本殿があります。
本殿 1752年建立であると推定。本殿彫刻は歓喜院聖天堂の彫刻を担った彫刻集団によるものと考えられています。
中備:不明 唐破風下:司馬温公の甕割り
温公は司馬光といい、北宋の政治家。「資治通鑑」を書いた学者としても知られています。子供の頃、大きな水瓶に落ちた友達を助けるために、石で瓶を割りました。大切な瓶を割ったので叱られることを覚悟していましたが、父親は温公をほめて、改めて命の大切さを教えたと言います。
本殿は鉄のフェンスで覆われていて、目視では斜めからしか見れません。フェンスの下から自撮り棒を入れて撮影。
右面の胴羽目:青砥藤綱
藤綱は夜中に東勝寺橋の上で、滑川に誤って銭十文を落とすと、家来に五十文で松明を買わせ、川を照らし探し出させます。同僚が「十文を探すのに、五十文も使って損だ」と笑うと、藤綱は「銭が川に沈んだままでは永久に損だ。五十文で松明を買えば、銭は流通し、合わせて六十文は天下の利益だ」と諭したという。
背面の胴羽目:七福神
左面の胴羽目:竹林の七賢
中国 晋の時代(三世紀後半)は世が乱れて、役人達には汚職がはびこり、腐敗しきっていました。七賢人はこれを嘆いて竹林に集まり、役人達のあるべき道徳性を説いて、世論の中心的存在となったという。
右面の脇障子:鳥
左面の脇障子:鳥
右面の腰羽目:唐子遊び--竹馬
左面の腰羽目:唐子遊び--獅子舞
木鼻:龍 (木鼻の龍と海老虹梁の胴体が繋がっています)
木鼻:龍
コメント:目視では斜めからしか見れないため良く分からなかったが、撮影した写真を見ると素晴らしい彫刻であることが分かります。