埼玉県・巌殿山正法寺 | 神社に隠れていたモノ

神社に隠れていたモノ

神社の彫刻を見て、何の物語か教えてほしいと思ったことがあり、調べた結果をブログします。タイトル「神社に隠れていたモノ」は覆屋の中にこんな素晴らしい彫刻が隠れていたのかという思いから付けました。

2022年12月7日 埼玉県毛呂山町大類の巌殿山正法寺に参拝しました。

 

由緒

寺伝では養老2年(718年)に沙門逸海が岩殿山の岩窟に観音像を安置し、傍らに正法庵と号した草庵を結んだのが始まりと伝わっている。ここ岩殿山はもとより神仙の地であり、諸天薩?の住まう霊峰であった。ある時、諸国を巡り修行する高僧であった沙門逸海がこの岩殿山に立ち寄った。山中にて修行していた折に夢の中に観音菩薩が現れ、霊告を受けたという。この霊告によって諸国行脚の修行を止め、観音像を安置し傍らの庵で日夜修行に励んだ。

仁王門

 

本堂

 

本堂の欄間に彫刻があります

 

欄間(左側):石鞏和尚
馬祖和尚(709-788)は、中国唐の時代の禅僧で、80名以上の優秀な弟子を育てました。その弟子の中に石鞏和尚がいます。この方は元々は狩人で、鹿を追って馬祖和尚に出逢いました。馬祖和尚は石鞏に「一本の矢で鹿をどれだけ射れるか」と問い、石鞏が「一頭です」と答えると、馬祖和尚は「わしなら群れ全体を射れる」と言った。石鞏が「私もあの鹿も生命あるものです。どうして群れ全体を射殺す必要がありましょうか」と返答すると、馬祖和尚は「お前、そのことがわかっているのなら、自分自身を射たらどうかな。」と言ったという。ここで「自分自身を射る」とは、自分の煩悩を射ることを意味している。自分さえ良ければ良いという欲を射殺すことができたら、あらゆる悩みや苦しみは無くなる。石鞏はそのことに気付いて馬祖禅師の弟子になったという。

 

欄間(右側):船子夾山
華亭船子和尚、名は徳誠。華亭県の呉江で小さな舟で河渡しをしながら、徃来の人に法を説いていた。夾山が船子のもとへ教えを受けに訪れた。船子は夾山と問答を行っていくが、夾山はすぐに答えを返していく。そんな夾山を船子和尚は笑って、「千尺も糸を垂れている意図は深淵(悟り)を知るためだ。しかし、鉤針はわずか三寸目先(現実)にある。私の言葉に囚われない君自身の言葉で言ってみよ。」と言うと、船子和尚は答えようとする夾山を櫂で水中に叩き落し、這い上がろうとする夾山に「言え言え!」と急き立て、夾山が何か言おうとする度に櫂で叩いた。そうして夾山は悟りを得たという。

 

お堂内にも彫刻があります

 

堂内欄間(右側):南泉斬猫
中国の唐代、禅僧・南泉の弟子が子猫を奪い合っていた。そこに南泉が現れ、弟子たちを叱りつけて言った。「これはいったい何の騒ぎだ。おまえたち、この有様に対して仏の道にかなう一言を言ってみよ。言うことができれば猫は助けよう。しかし言えなければ猫を斬ってしまうぞ。」しばらく待ったが、誰も答えられない。南泉はついに猫を斬った。その晩、所用で出かけていた趙州が帰って来た。南泉は趙州に同じ問いをすると、趙州は履いていたぞうりを脱ぎ、黙って頭の上にのせて部屋を出て行った。これを見た南泉は「おまえがあの場にいれば、猫を殺さなかっただろう」と嘆いたという。

 

禅僧の南泉が猫を捕まえて、殺そうとしている場面

 

堂内欄間(中央):玉巵弾琴
玉巵は西王母の娘で、太真王の夫人であった。玉巵は琴の名人で、一弦琴を弾ずれば、百禽の鳥が飛来したという。また時には、白龍に乗り四海を周遊したとも伝えられる。

 

堂内欄間(左側):不明  (額で隠れていて分かりません)

 

龍の絵天井

 

孔雀の絵天井

 

大銀杏
樹高は約25m、根回りが約11mもあり、樹齢は700年を超えると推定され、東松山市の市の名木にも指定されています。

 

コメント:「石鞏和尚」「船子夾山」「南泉斬猫」は禅宗のエピソード。禅問答で色々な解釈ができるようです。特に、船子夾山は棒で人を叩きのめして溺れさせようとしているように見え、調べるまでどのような状況なのか分かりませんでした。

 

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