2022年2月22日 神奈川県横浜市瀬谷区阿久和東の瀬谷熊野神社に参拝しました。
由緒
社殿によると、平安時代の安和の頃(968~970年)から当地区の人々は、こんもりと茂ったこの森を”天神地祇の御座所”と敬い木を切ることを禁じて”まつりの場所”としていましたが、南北朝時代の弘和の頃(1381~1384年)に小さな社を建てて祀りました。江戸時代には、阿久和を知行した安藤治右衛門定喬は社事に率先したといいます。 現在の社殿は、明治6年(1873年)の建立で、拝殿は数々の彫刻で飾られています。
鳥居
拝殿
懸魚:鳳凰
唐破風下:龍 中備:4頭の龍
右側の木鼻:獅子と象 手挟:応龍(羽根のある龍)
左側の木鼻:獅子と象 手挟:応龍
正面の扉に4枚の彫刻
玉巵弾琴
玉巵は西王母の娘で、太真王の夫人であった。玉巵は琴の名人で、一弦琴を弾ずれば、百禽の鳥が飛来したという。また時には、白龍に乗り四海を周遊したとも伝えられる。
梅福仙人
梅福は中国前漢時代の人である。もともとは漢の役人であったが王莽(紀元前45~紀元後23) の専制に嫌気がさし、仙人となるために諸山遍歴の旅に出た。空同仙君に教えを請いつつ、飛鴻山で庵を結んで修行した結果、金童玉女が青鸞を 連れて梅福の前に現れた。梅福は青鸞に乗って天空に飛び去ったという。
董奉
その昔、中国は廬山というところに董奉という医師がいました。彼は人に尽くすために治療を行ってあえて治療代を受け取らず、その代わりに病気が治った人には、記念として杏の苗を植えてもらいました。そうして、いつしか10万余株の杏の木がうっそうと茂る大きな林ができあがったといわれています。また、董奉の傍らには常に虎がおり、害をなす者には襲いかかり、困っている者は助けたと云われています。
亀に乗る黄安仙人。
列仙伝という中国の道教にまつわる説話集で、70人の仙人たちの伝記が載せられている。その一人が黄安。黄安は中国前漢の武帝時代の仙人。家にいる時には三尺程ある大亀に乗っている。逸話に、今年で何歳になるかと聞くと、この亀は三千年に一度顔を出し、今まで五度頭を出しているので一萬五千歳と答えたという。長寿、永遠の象徴となっている。別名、盧敖。
向拝下の右側手挟:麒麟
向拝下の左側手挟:麒麟
虹梁や欄間下の手挟に、応龍や鳥の彫刻があります。
正面の右側の欄間:浦島太郎
正面の扉の上の欄間:不明
正面の扉の上の欄間:不明
正面の左側の欄間:梅妻鶴子
林和靖は、中国北宋の詩人で、生涯官に仕えず、西湖のほとり孤山に庵を編んで自適の生活を送った人物として知られる。妻のかわりに梅の木を、子のかわりに鶴を愛でていたという。
左面や右面の欄間にも、鳥や獅子の彫刻があります
鳳凰
右面の脇障子:不明 (左面の脇障子 関羽との対比なら張飛だが、武器を持っていない。誰?)
左面の脇障子:関羽 (青龍刀からの推測)
梅が咲いていました。梅の後ろの木は樹齢170年と言われるアカシデ。
*** 神社と彫刻の一覧 ***