埼玉県・八幡神社 | 神社に隠れていたモノ

神社に隠れていたモノ

神社の彫刻を見て、何の物語か教えてほしいと思ったことがあり、調べた結果をブログします。タイトル「神社に隠れていたモノ」は覆屋の中にこんな素晴らしい彫刻が隠れていたのかという思いから付けました。

2022年4月23日 埼玉県入間郡越生町津久根の八幡神社に参拝しました。

 

由緒

当地、大字津久根字若宮に鎮座する八幡神社は平安時代中期の創建と伝えられている。当社の由緒を物語る歴史資料として、鎌倉時代の正嘉二年(一二五八)銘を持つ密教法具の金剛盤(町指定文化財)が伝存している。棟札の写しによると、現在の本殿は天保四年(一八三三)の再建で、大工は新座郡舘村(現志木市)の高野武兵衛を棟梁に、当地生まれの江戸浅草新堀の吉山定右衛門と和田村(現越生町西和田)の石井熊蔵が務めた。彫物を請け負った浅草茅町の嶋村源蔵は、川越氷川神社や西東京市の田無神社などで知られる、嶋村流七代目の源蔵俊表と思われる。浅草東本願寺前の石川藤吉(石川流二代目周信)も携わっている。「黄石公と張良」、「高砂」、「的慮に乗る劉備玄徳」などで飾られた社殿を、四隅の縁下で力神が支えている。

 

鳥居

 

拝殿

 

覆屋

 

本殿

 

右面の胴羽目:劉備、檀渓を的廬で跳ぶ
蔡瑁は、劉表からの信任の篤い劉備を快く思っていませんでした。ある時、蔡瑁は酒宴にかこつけて劉備を暗殺しようしますが、この企みを親しくしていた伊籍から知らされ、劉備は隙を突いて酒席から抜け出します。劉備は的慮(劉備の愛馬)を駆って裏門を突破しますが、檀渓の激流に追い詰められます。劉備は意を決して的慮を河へと乗り入れると、流れに飲まれかけますが、的慮は跳躍して対岸に飛び移り、逃げ延びました。

 

背面の胴羽目:高砂
九州阿蘇神社の神主友成は播磨国(兵庫県)の名所高砂の浦に立ち寄ります。そこに老夫婦が現れ、松の木陰を掃き清めました。友成は老夫婦に、高砂の松と住吉の松とは場所が離れているのになぜ相生の松と呼ばれるのかと尋ねました。老人はたとえ山川万里を隔ていても夫婦の愛は通い合うもので、樹齢千年を保つ常緑の松なら尚更であると答えます。そして、住吉と高砂の明神が夫婦であることを語り、自分たちが相生の松の精だと告げると、住吉で待つと言い残し、小船に乗り沖へと姿を消して行きました。友成が摂津国の住吉へ行くと、住吉明神が月下に降臨し、世の平安を言祝ぐ舞を神々しく舞うのでした。

 

左面の胴羽目:黄石公と張良
漢の高祖に仕える張良は夢の中で老翁と出会い、兵法を伝授してもらう約束をする。夢の中で約束した五日後に橋のほとりに行くと、老翁は既に来ており、「人に物を教えて貰おうというのに、先生より遅く来るとは何事だ」と咎め、また五日後に来いと言い去っていく。五日後、張良は正装をし早暁に行くと威儀を正した老翁が馬に乗って現れた。そして自らを黄石公と名乗り、履いていた沓を川へ落とした。張良は急いで川に飛び込んだが、大蛇が現れ威嚇し沓を取られる。張良はすばやく剣を抜き立ち向かい大蛇から沓を奪い返した。黄石公は張良の働きを認め、兵法の奥義を伝授しました。

 

神功皇后と子を抱く武内宿禰
神功皇后は仲哀天皇の妃。仲哀天皇が熊襲征伐で敗北し戦死。その後、熊襲征伐を取り止め、朝鮮半島に出兵(三韓征伐。200年)し服属させたという。その時、神功皇后は身籠っており、お腹に石をあててさらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせたとされる。その帰路、筑紫の宇美で応神天皇を出産したと伝えられている。

右面の脇障子:子を抱く武内宿禰

 

左面の脇障子:神功皇后

 

浜床(向拝の階段下にある床):波と扇  --扇は末広がりの形から将来の展望が広いことを表す縁起物、同様に、波も終わりなく続いていくことから未来永劫への願いが込められている

 

右面の腰羽目:力神、水草と水鳥、波と亀 (本殿の四隅の縁下で力神が支えている)

 

力神は4体いて、それぞれ支え方や髪形などが異なっている。

 

 

コメント:波と扇、力神など胴羽目以外の彫刻に工夫を感じる神社でした。