東京都・舎人諏訪神社 | 神社に隠れていたモノ

神社に隠れていたモノ

神社の彫刻を見て、何の物語か教えてほしいと思ったことがあり、調べた結果をブログします。タイトル「神社に隠れていたモノ」は覆屋の中にこんな素晴らしい彫刻が隠れていたのかという思いから付けました。

2022年5月8日 東京都足立区舎人の舎人諏訪神社に参拝しました。

 

由緒

創建年代は不詳です。身舎内部には棟札が現存し、「天保七年十一月吉祥日」の記載より1836年の建立であることがわかります。舎人諏訪神社は、毛長川の名称にまつわる伝承から新里毛長神社の男神に比定して女神とされております。

 

鳥居

 

拝殿

 

覆屋 頑丈な金網

 

本殿。1836年建造で、壁面全面に彫刻が施されている。足立区有形文化財。

 

右面の胴羽目:不明  (仙人と鹿の組合せは多いため分かりません) (2022年8月14日修正)

右面の胴羽目:伯夷叔斉
伯夷・叔斉は古代中国の孤竹国の王子で、伯夷が長男、叔斉は三男として生まれた。父の死後、伯夷は「叔斉が王になることが父の遺言だ」と言い、叔斉は「長男を差し置いて王になれない」と、互いに王の位を譲りあい、ついにともに二人とも国を出てしまい、孤竹国の王は次男が継いだ。国を出た伯夷・叔斉は周へ行きました。その頃、周の武王は父である文王の死後すぐに殷の紂王と戦争をしようとしていた。伯夷・叔斉は武王に「父の死後間もないのに、戦をするのが孝と言えるのか。君主の紂王を討つのが仁言えるのか」と諌めました。この後、伯夷・叔斉は首陽山に隠棲し、武王の下で作られた穀物を食べる事を恥とし、ワラビなどの山草を食べていましたが、ついに餓死したという。
また、 司馬遷は、善人でも餓死した伯夷・叔斉と、天寿を全うした盗賊を比べて、「天道是か非か」(天は善人に味方し、 悪人を滅ぼすのか?)を問う題材としています。そのためか、飢えている伯夷・叔斉に、天は白鹿を送り、そして、伯夷・叔斉は白鹿の乳を飲んで一時は命を永らえました。しかし、叔斉が鹿を食べないかと言ったことで、白鹿は現れなくなり、伯夷・叔斉は餓死したというエピソードがあります。

 

参考として、諸職画鑑 北尾政美(画) より伯夷叔斉 (2022年8月14日追記)

 * どうやら2ページに渡って伯夷と叔斉の絵を描いている。

  下絵と思われるものが見つかったから分かったが、彫刻から伯夷叔斉は無理がある。

 

背面の胴羽目:鶴と亀

 

左面の胴羽目:林和靖
林和靖は北宋の詩人で、妻のかわりに梅の木を、子のかわりに鶴を愛でて、俗世を離れ一人で気ままに風流に暮らしたという。

 

参考として、林和靖(押絵手鑑 大岡道信(画)より)。 --梅とすずり(鶴なし)の絵。

 

右面の脇障子:鯉

 

左面の脇障子:鯉



コメント:舎人氷川神社から徒歩10分程度の神社。舎人氷川神社が神話で迫力のある彫刻に対し、この彫刻はおとなしい感じ。