2022年7月27日 埼玉県久喜市所久喜の八幡神社に参拝しました。
由緒
創建年代は不詳ですが、江面村の一部。1650年頃に江面村から分村し村の鎮守。文久2年(1862)から慶応2年(1866)にかけて社殿が新築され、現在の社殿はこの時に建立されたものです。
鳥居
拝殿
本殿
右面の胴羽目:白桜十字詩 (木に筆で書いている。桜を削っているなら、短刀でないのか?)
新田義貞は足利尊氏らと組んで、鎌倉幕府を滅亡させ、建武の新政に成功する。しかし、足利尊氏は貴族による天皇制に不満を持ち、足利氏と新田氏は敵味方に分かれて戦い、新田義貞は敗れて戦死、後醍醐天皇は隠岐に流され再び足利氏による武家政権(室町幕府)となる。児島高徳という武将が隠岐に流される後醍醐天皇を救出しようとし追いかけたが果たせず美作の国の行在所の前庭の桜の幹を削って「天莫空勾踐,時非無范蠡」(天は勾踐(春秋時代の越王)を空しく見殺しにない。時に范蠡(越王を助けた忠臣)がいないとも限らないのだから)という詩を書いて天皇を励まし忠臣ぶりを示した。この詩は「白桜十字詩」と言われる。
背面の胴羽目:新田義貞と稲村ケ崎 (太刀が見当たらない。投げ入れた後か? 投げ入れた後でした。詳細は次の画像で説明)
新田義貞は鎌倉幕府討幕のため進軍。しかし、鎌倉は三方を山、一方を海に囲まれ、守りやすく攻められにくい天然の要塞ため、攻めあぐねていました。義貞は稲村ケ崎で黄金の太刀を海に投げ入れて龍神に祈願すると、潮が大きく引いて、海岸伝いに鎌倉へ攻め入ることが出来、勝利したと伝えられる。
鳥が集まっている波の間に、黄金の太刀がありました。[2022年8月7日修正]
左面の胴羽目:楠木親子の桜井の別れ (短刀でなく巻物を授けている)
鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇は天皇親政の律令政治を理想とした建武の新政を開始した。しかし、武士階級の不満を招き、足利尊氏が離反し戦となった。足利尊氏軍勢約50万に対し、総大将:新田義貞の朝廷軍約5万と圧倒的な戦力差があり、楠木正成は和睦や兵糧攻めを策を提言したが朝廷を説得できず、死を覚悟して湊川の戦いに赴いた。その途中、桜井駅で正成は11歳の嫡子・正行に対し「生き残って、いつの日か朝敵を滅せ」と諭し、後醍醐天皇から下賜された菊水の紋が入った短刀を授け、今生の別れを告げたという。
* 『太平記』では「後醍醐天皇から下賜された短刀」を授けている。しかし、江戸期に『太平記』が大人気になり、解説・研究をまとめた『太平記評判秘伝 理尽鈔』という本では、「国を政むるの道教十箇条、法礼の事について自ら書いた巻物」を正成が授けるというバリエーションがあるそうです。[2022年9月1日追記]
参考として、鵺退治_一蝶画譜
右面の脇障子:梅福仙人? (普通なら、梅福仙人は青鸞に乗っているのですが・・)
左面の脇障子:上元夫人 (麒麟と思われる動物がいることからの推測)
元封元年(紀元前110年)七月七日、西王母が上元夫人と共に漢の武帝のもとに降り、「五獄真形図」などの経典
を授けた。この時、上元夫人は麒麟に乗つて武帝に謁したという。
腰羽目は3面とも、獅子と霊獣の犀
右面の木階:力神、獅子 浜床:唐子遊び
浜床:唐子遊び--曲芸?
左面の木階:力神、獅子 浜床:唐子遊び
浜床:唐子遊び--布袋が宝船を引いている
コメント:彫刻は迫力が感じられる良い彫刻。江戸時代でも物語にバリエーションがあるのだと分かりました。