ここ半年、まだ続くか!というほど次々と衝撃的なことが起こり続けた。もう勘弁してくれ、立ち直れないから、と綱渡りのような毎日が続いた。
起こった出来事に順位はつけられないけれど、昨年の11月に父を亡くしたことはやっぱり大きな出来事だった。望まれたことではなかったかもしれなかったけれど、長男として生まれた以上、しっかり見送るのは自分の仕事だと感じて、分からないことだらけだったけれど、精一杯務めさせてもらい、見送った。
その後の母の落胆はそれはひどいものだった。
けれど、なぜかその母に強く反発した。
言い切る自信はないけれど、反抗期を迎えるはずの時期に、反抗期を経験しなかった気がしている。それは両親が必死に働いているせいもあったろうし、自分自身も反抗をしている暇がないくらいで過ごしてきたから。いや、そもそも、その時期に一緒に住んでいながら、顔を合わせる時間すらないまま、高校を出て自宅から離れたようにも思う。
長男だもの、いつか地元に帰ってこなくちゃ。
長男だもの、親の老後も考えなければ。
それは呪縛だった。
けれど、父亡き後、母の「そんな風に思わなくてもよかったのに」の一言にぶち切れた。
いや、長男だからあぁしろ、こうしろって散々言ってきたじゃないか。
猛反発の時期が始まった。もしかしたら、遅れてきた反抗期だったのかもしれない。
母の方針ひとつひとつがしゃくに障って、反発した。今思えば、猛攻撃と言っていいかもしれない。父亡き後、様々な事務処理があったけれど、勝手気ままに動く母にイライラした。
昨日、父の墓のことで"報告"に、とボクの自宅に出かけてきてくれた。けれど、ここでも猛反発。勝手に決めるな。弟たちとも相談するって段取りまで作ったじゃないか。
ガンガン怒りをぶつけ始めた。
けれど、1年かけて東京で勉強してきた甲斐があったのかもしれない。その怒る自分を、自分の少し上から見下ろしている自分がいた。「何をそんなに怒っているんだ?」
「もういい!」と言って帰ろうとする母。けれど、その状態で、年齢を考えても、遅い時間を考えても、今、運転して返すのはとっさに危険だと思った。
「ちょっと座りな」
母の寂しさは痛いほど分かっているつもりだった。50年を超えて連れ添い、母自身を受け止めてくれていた伴侶の死。これからどうしていいのかも分からなかったろう。しかも子どもも歳を重ねていっぱしのことを言う。オロオロするばかりだったろう。母の姿が小さく見えた。
すっと冷静になれた。
あとは母の話を整理して、段取りをとった。自分自身が冷静な状態を取り戻せれば、事務的な段取りは自分の守備範囲だ。分かりやすくかみ砕くのも、仕事としてやってきたことだ。
母も納得して落ち着いた。
母がぽつりぽつりと語り始めた。「ひとりになって、誰にも相談できなくて、寂しくて…」
その後、母の後をクルマで付いて、母を実家まで送り届けた。まだまだ運転もできる。大丈夫だ。翌日はボクが不在になるので、母にやってもらう段取りを確認した。
帰り際、生まれて初めて母を抱きしめた。何も言えなかった。
どうしようもなく切なかったのはボクだけじゃなかった。夫がこの世を去り、ボクのゴタゴタで孫まで姿を見られなくなり、今年の大雪の中で引きこもっていた母のつらさが伝わってきた。
いろんなことを失った事実が変わる訳ではない。
けれど、まもなく、ようやく用意できた仏壇に入る父の遺影が少し笑った気がした。
この間の出来事で、父の無念さばかり考えてて、ただただ申し訳ない気持ちでいたけれど、父がこのタイミングで世を去ったのは「後は任せた。オレはここで見ているから、母と兄弟3人で力を合わせろ」というメッセージだったんだ、と気がついた。
そうか、この切なさには意味があったんだ。
父にも感謝の意味で、父の大好きだった福寿草で、今日はブログを飾ってみた。



