2014年3月10日。ボクはこの日を一生忘れないだろう。

 

その日、夫婦で病院に呼ばれていた。

半年あまり不登校と向き合いながら過ごしてきた娘のことで、だ。

すでに摂食障がい、気分障がいを起こしていた。それでも、病院に通いながら併設される養護学校で頑張っていた。その理由は「お父さんから離れたい」だったけれど。

 

診断があった。妻は「私の育て方のせいではなかったんだ」と思ったろう。

正直、ボクは「これからどうしたらいいんだろう」と思っていた。

 

臨床心理士さんから検査の概要を必死に聞いたけれど、正直理解も十分できなかったし、あまりそういうことはないけれど、今でもろくに覚えていない。ただ、「養護学校でゆっくり学びましょう」という言葉と、窓の外で舞う雪だけ鮮明に覚えている。涙があふれた。

 

けれどそれに浸っている時間はなかった。即座に病院をあとにして養護学校に飛んだ。

すぐに両親を交えての会議が開かれた。

結果は「彼女の力では養護学校はもったいない。通常の学校で揉まれながら、人間関係の構築に力をつける方が、後々の自立のためだ。」

拒まれたのではなく、半年あまりのドクターとコーディネータとで様子を見ていただいた上での判断だった。あとで「大人だけで勝手に決めるな」と彼女に相当怒られたが、ようやく冷静になりかけていた頭で、それがベストだ、と思っていた。

 

さらにそのあと、在籍する学校に飛んだ。

そこでも両親を交えてすぐに会議となった。「養護学校の方針は理解できる。それならば、学校でも万全の体制を作って、彼女を支えよう。」

たった1日しかなかったけれど、多くの方が知恵を寄せて、彼女のために考えてくれた。ありがたかった。

そのときは時間が経つにつれて少しずつ冷静になっていったけれど、受け入れられない動揺は収まらなかった。けれど、時間をかけたとしても、選んだ結論は同じだったと今でも思う。

 

本当に長い1日だった。

ところが、診断が出て方針が決まったものの、小児科から児童精神科を紹介され、また波乱が起きた。

「入院をお勧めします」

この結果を聞いたとき、せっかく体制を作れたのに、と、お忙しいドクターと何度も連絡をとって説明を求めた。月に1度、東京からくるドクターだったので、連絡先を教えてもらい、他の子どもさんの診察に配慮してメールでやりとりをさせていただいた。

 

医:「状況は分かっています」

ボ:「彼女を支える体制はできているんです」

医:「入院は必要です。小児科や学校には私が説明します」

 

入院先は、たった4床しか入院ができない信州大学付属病院「こどものこころ診療部」だった。自宅からはクルマで、高速道路利用で行っても1時間半かかる。彼女に、学校で学んで欲しい「人間関係で揉まれること」とは相反する。けれど、ここでも何度もドクターとのメールで、ときには電話で今後の方向性を探りながら、苦渋の決断をした。

多くのドクター、関係者のご尽力もあって、あり得ないスピードで入院に至った。

 

その一方で、彼女の苦しさの一端が診断によりわずかながら理解もできた。

けれども、今度は治療と自己認知に力も入れなければならない。

 

「よし、ボクは家を離れよう」

 

それが彼女の安定につながるなら。説得を試みるより、今、負担がひとつでも減るなら。

 

その決断が正しかったは今も分からない。

娘の安定のために、一時的にでも自宅を離れるなんて聞いたことがない。ボク自身も、どんな形であれ、一緒に住みたかった。診断を持っていればなおさらだ。

けれど、どうしても命だけは守りたかった。

 

自分の願いと、万が一にも娘が自ら命を絶つ危険性を両天秤にかければ、傾く方は決まっている。

 

その年は家庭のドタバタ、仕事も目一杯でダウンして、療養休暇をいただいていた。

予定された復職が目の前。あまりのストレスに、この5日前には顔面麻痺にもなった。

けれど、彼女のいる自宅から離れて、復職の日を迎えた。

 

実は年子の妹がいる。姉の安定のために離れたんだ。入学式の出席は見送った。職場ではできるだけの笑顔で過ごしたけれど、通勤のクルマの中では切なくて涙があふれた。

 

あれから3年。今は激動の時間を振り返ることしかできないけれど、あれがベストだったと思っている。ボクも苦しかったけれど、一番苦しかったのはもちろん彼女だ。