むかーし、昔。世がバブルに浮かれていた頃、「あっしー」君という言葉があった。
ちやほやされる女性がいて、その女性には、彼氏の他に都合よくご飯をおごってくれる「めっしー」君や、都合よくクルマで駆けつけ送り迎えをしている「あっしー」君に囲まれて…という時代があった。
「あっしー」君は、その立場に甘んじていても幸せだった。彼女に近づけるなら。
ボクはものすごく心配性だし、もしも自分自身ができることならば何でもやりたいと思っている。けれど、つい先日、大変信頼している方に「過ぎたるは猶及ばざるが如し」を学ぶといい、と言われたことがある。もちろん、言っていただいた方を批判するつもりはなく、むしろ指摘に感謝している。
精神医学界に「鶴の恩返し症候群」というものがある。
「鶴の恩返し」の物語を思い出して欲しい。一見美談だが、この物語の最後は誰が幸せになっただろうか。決して裕福ではない老夫婦から助けていただいたお礼にと女性が現れ、女性は部屋にこもって反物を織る。老夫婦の経済状態は好転していく。
ある日、「見てはいけない」と女性に言われていたのに、老夫婦はその禁を破って覗いてしまう。そこには羽毛の大部分が抜かれ、痛々しい姿になっている鶴。見られたことによって、鶴は老夫婦の元から去っていく。
これを美談と考えるのは日本人の特徴らしい。
ボクもどこが悪いの?って思う。けれど、この物語の結末は誰も幸せになっていないことに気づいて欲しい。鶴は自己犠牲のあまりボロボロになり。老夫婦はせっかく訪れてくれた女性を失うことになる。もしかしたら老夫婦にとっては、大切な家族になっていたかもしれない。
お世話になったから、と、自分の羽をむしってボロボロになっても尽くす。
けれども、これはいつまで続いたんだろうか。実は、ボクはこの話を例にして、「やり過ぎは自分のためにも、人のためにもならない」と医学的に指摘されたことがある。
「鶴の恩返し症候群」の本来の意味は違うらしい。
けれども、また言われてしまった。
相手に喜んでもらえることは嬉しいことだけれど、それが自己犠牲の上に成り立っているとしたら。もちろん、喜んでくれる人もいるだろうけれど、「そこまでしてくれなくても…」と却って遠慮をされてしまうこともある。それなのにときとして、「いいからいいから」と押しつける。
自分で言うのもどうかと思うが、ボクはその量の調整が下手くそだ。これは良さでも何でもない。自分あっての次の行動だし、親切と思ってやったことがことが、相手にとっては余計なお世話になることもある。
正直に告白するが、特にボクはありがとう、と言われたい。優しいね、と言われたい。
一見さり気ない親切に見えても心のどこかで見返りを求めている。
何か役に立てたかな、と思う一方で、自己犠牲への不満がたまっていき、ある日「いくら何でもあんまりじゃないか」という形で爆発する。対象にされるのは親切にした相手ではなかったりする。これがボクの病理だ。
どこかで我慢しているらしい。
先日受けた人間ドックでは、血液検査や肝機能検査ではほぼ問題がなかった。
ほんの5年ほど前には「いやぁ、見事な脂肪肝ですねー」と褒められた(笑)。けれど、今やそれは所見なしに変わった。西洋医学的には。
一方で、ここのところで背中の張りに悩まされている。
東京に出ついでに、そんなちょくちょくは寄れないけれど、整体をお願いしているところがある。先週、半年ぶりに寄らせてもらった。そこで背中を触られて、開口一番「何があったんですか?ずいぶんストレスを溜めていますね」と指摘された。
肝臓は神経が通っていないそうだ。けれど、ストレスや疲れは肝臓に蓄積され、やがて、つながっている腎臓にも影響が広がっていく。西洋医学的には数値がよくても、東洋医学的には怪しい、ということはよくあって、それは背中の張りや、臓器のある側である体の右側の痛みとして、表出することがあるそうだ。ドンピシャだった。
自分を削ってでも、誰かが喜んでくれれば。その思いは誰にどんな話を聞いても変えたいとは思わない。けれど、本当に倒れてしまったとしたら…。抗うつ剤は飲んでいるけれど、ストレスフルな環境に身を起き続ければ改善されないし、むしろ悪くなっていくことに似ている。
過ぎたるは猶及ばざるが如し。
この言葉はボクへの忠告でもあり、優しさでもあると思う。さらには周りに対して、却って迷惑をかけないためでもある。健康を害してまで尽くすことは決して健全なことではないことは分かっているつもりだけど。
なんにつけても思い入れは強くなるし、何か役に立てるならば、という思いが消えることはない。けれど、「それなのに、あんまりじゃん」という思いをため込むのでは本末転倒だ。
その「ちょうど良さ」を探すことが、人生に課せられた大きなテーマであるような気がする。



