母が58歳で亡くなってから、今年で25年目になります。
私自身が母の年齢に近づいてきました。
会えるものなら、幽霊の姿でもいいから会いたいです。
そして、心からお礼が言いたいです。
お嬢様育ちで、のんびりした性格の母だったそうです。
お見合いで私の父が一目ぼれをし、(「笑顔がかわいかった」と父が言っていました)結婚しました。
その後、母の生活は一変!
私の祖父が社長で、父の姉夫婦と一緒に商売をする家に嫁いだからです。
夫の両親と同居、近所には意地悪な小姑が二人、その中で商売を手伝いながら三人の子供を育てました。
親戚やお店の従業員さんとの付き合いもこなしていました。
母はいつも歯を食いしばるような怖い顔をしていましので、私は甘えたくても甘えられませんでした。
今から思えば、母は無理をして必死で生きていたのがわかります。
私がまだ小学校に入学したばかりのある日、家の中で、もめ事が起こりました。
内容は当時の私には全く理解できませんでしたが、祖父と両親、隣に住んでいる父の姉夫婦も加わり、激しく言いあっています。
私はその時初めて、いつもは強い母が泣いているのを見ました。
「これはただ事ではない…」
と、子供ごころに感じ、私は息を殺して覗(のぞ)いていました。
やがて
母の両親である私の外(がい)祖父が、車で2時間かけて家にやってきました。
外祖父(母の父親)は祖父(父の父親)に土下座をし、額を畳にすりつけてこう言いました。
「今日は娘を連れて帰らせていただきます。」
土下座されたほうの祖父は、黙って頷(うなず)きました。
ところが…!
母が強い口調でこう言うのです。
「実家には帰りませんから!お父さんは帰ってください。」
私はビックリしました。
「せっかく迎えに来てくれているのに、なんでお母さんは一緒に帰らないの!?」
と、心で叫びました。
子どもの学校や幼稚園もあるし、舅のご飯の事や、他の家事も商売もある…、
そう、母は思ったのでしょうか?
その場を離れようとはしませんでした。
お手伝いを頼める人もいたので、母はあの時実家に一時的に帰ったとしても、全然悪くなかったのに。
それから約20年後、母の義理の兄(私の父の姉の夫)が、勝手に知人の保証人になり、結局騙されて多額の借金をつくってしまいます。
一緒に商売をしている父母にも、そのしわ寄せが大きくありました。
借金の半分を押し付けられる形になり、母はストレスで顔面神経痛になりました。
顔半分がダラーっと垂れ下がるほどになってしまいました。
姉夫婦とはその後絶縁しました。
私は妹と協力して、毎月送金しましたが、スズメの涙ほどしかできませんでした。
父母の頑張りで、なんとか借金を返し終わり、家業を立て直しました。
母の顔面神経痛が治り、落ち着いた生活が戻ってきた頃、今度は母は癌宣告を受けてしまいます。
私たちは末期であることを本人には伝えませんでした。
退院して仕事に復帰することばかりを、母は考えていたからです。
事実を母に悟られまいとして、私は病室に行くときはいつも明るく振る舞っていました。
しかし病室を出たとたんに、涙がどっと溢(あふ)れ、打ちひしがれていました。
「顔色がいいね!これなら大丈夫やね。」
母を励まそうとして言いました。
すると母はすねた顔で、甘えるようにこう言ったのです。
「私を全然わかってくれていない!しんどいんや!」
心に刺さりました!
あ~、私は間違っていた!
苦しいなら苦しい、悲しいなら悲しいと、母にもっと自然な心を出させてあげるべきでした。
私も素直な気持ちを母に出すべきでした。
母が「死」の恐怖と不安を感じてしまうのを避けたくて、ついつい元気そうに振舞っていました。
「お母さん、ごめんね!しんどいね!私もつらい!」
私はベッドで横になっている母に覆いかぶさるようになって、抱きしめました。
一緒に泣きました。
病室を出る時です。
母はいつもになく、笑顔に変わっていました。
そして、これが母との別れになりました。
もっと長生きしてくれたら、旅行に連れて行ったり、親孝行ができたのに……
お返しが何もできなくて、本当にすみません!
ありがとうございました。