義母の腹違いの兄は18歳の若さで戦死されてました。
「英一お兄さん」……!
義母が涙でそう呼んでいます。
この名前を思い出すたびに、私も目頭が熱くなります。
義母の父親(萬ニさん)は、学者になりたくて寺子屋通いにいそしんだ人だったそうです。
それと相反する感じですが、神戸で「かね」さんという芸者さんに夢中になり、
とうとう身請けをして結婚しました。
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当時(大正時代)親戚の強い反対のため、萬二さんは学業を続けることを断念し、神戸で商売をしていました。
結婚して何年も立たないうちに、
萬二さんは「かっけ」を患い、かねさんと実家へ帰ります。
そして長男(英一お兄さん)が生まれました。
病気が完治した萬二さんは、一人で神戸へ行き、また商売を始めます。
かねさんと1歳に満たない息子は、萬二さんの兄の家に残されました。
かねさんは兄夫婦から酷いいじめを受けていたそうです。
その後間もなく、
萬二さんは何を血迷ったのか、三行半(みくだりはん:今でいう離婚届)をかねさんに突きつけます。
かねさんは追い出されました。
1歳の息子は、「おまえには育てられない」と無理やり兄夫婦に引き裂かれ、養子に出されてしまいます。
なんと、かねさんはその養子先の隣町に移り住み、密かに息子の成長を見守り続けていました。
不幸中の幸いですが、養父母は子どもができないこともあり、英一お兄さんをそれはそれは可愛がったそうです。
第二次大戦の頃、
英一お兄さんに「赤紙」が届きます。
養父母:
「望みがあったら、遠慮なく言ってごらん。」
英一お兄さん:
「実のお父さんに会ってみたいです。」
普通に考えて、実のお母さんに会いたいのでは?と私は思うのですが、何かそこは気を遣うものがあったのか、それともすでにこっそりと会っていたのか…、それはわかりません。
英一お兄さんは出征する際に神戸港に寄ったそうです。
その時は萬二さんはお見合いして再婚していました。義母も生まれていました。(4歳ぐらい)
萬二さんは、英一お兄さんの腹違いの弟や妹、4人を連れて出征する息子に会いに行きました。
英一お兄さんは涙を浮かべて、こう言ったそうです。
「僕にはこんなに可愛い弟や妹がいたんですね!」
そしてその神戸港には、ひっそりとかねさんの姿もあったそうです。
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ところが出征して半年も立たない間に、英一お兄さんの
「戦死」の通知が養父母宅に届きます。まだ19歳でした。
かねさんはその事実を知り、心労で後を追うように亡くなってしまったそうです。
ここまでの話は、義母の母が、義母に話していた内容です。
萬二さんの再婚相手である、私の義母の母
「きよ」さんは、
「お父さん(萬二さん)は、ホンマにひどい事をした人や。前の奥さんと息子の人生を狂わせてしまった。それなのに、何のお詫びの言葉もない!情けない!」
と、いつも言っていたそうです。
その萬二さんは晩年、中風(俗に言う「ちゅうぶ」という病気)を患い、やがて寝たきりになります。
辛い話ですが、萬二さんの息子である義母の弟は
「おまえが病気になったせいで大学に行けなかったやないか!」
と、父親である萬二さんを殴る蹴るだったそうです。
その度に義母がかばって萬二さんを抱きしめ、代わりに背中で弟の蹴りを受けたそうです。
萬二さんの人生の最後は、聞くのも苦しいものでした……。