『三田文學』冬号No.156に

 

『こんにちはアルルカン』

という

短編を掲載して頂いています。

 

前回の寄稿がNo.153なので

約8カ月ぶりの

寄稿ですが

これでも再登板のスパンは

異常に短いそうです。

 

 

 

 

 

 

昨年、上京の折、

編集長と

担当さんにお逢い出来た。

 

季刊の辛いところですと

おっしゃっていた。

 

学者肌を感じさせる編集長。

品のある佇まいが

印象的な人でした。

 

私のような年寄りの男が

読んでも

嶽本さんの作品は刺激的です

といわれ、嬉しかったです。

 

タイトルは

氷室冴子の

『さようならアルルカン』を

もじって、います。

 

当然、氷室冴子が

作品の根幹に

関わっています。

 

最近松尾大社に行きました

 

僕は今、氷室冴子の再評価を

切望しています。

 

吉屋信子から始まる

少女小説のタスキ、

僕は敢えてこの先、

遺された作家人生を

少女小説に捧げるを

決意します。

 

松尾大社の辺りをぶらっついていると

結構、お猿さんに出逢います

 

『こんにちはアルルカン』は

ですから

少女小説です。

 

No.156には

織田作之助青春賞

石澤遥さんの『とんぼ』が

掲載されていました。

 

一見、梶井基次郎を

想起させる作品。

しかしこの作品に

梶井のロマンチシズム

ナルチシズムは

継承されていない。

 

あるのは

ロマンチシズムや

ナルチシズムとは反対の

自己を肯定出来ない

何者とも定義出来ない

不安、自信のなさ。

 

これは、

石澤遥さんの

『とんぼ』に限らず

No.153に掲載されていた

三田文學新人賞

鳥山まことさんの

『あるもの』にも通じる。

 

鳥山まことさんの作品は

自分にしか観えないもの

を主題にした

敢えて類似を挙げれば

安部公房――な佳作でした。

 

こちらは

自己を肯定出来ない――

ことを当然のよう

開き直っておられるのだけど。

 

新しい世代の作家にとっては

自分が何者か解らない

自己陶酔なんて出来る

筈もないというのが

深層に根付いているのでせう。

 

髪を上でお団子にしてみました

 

『とんぼ』は三人称を用い

『あるもの』は

一人称を用いているけども

かつて

近代文学の基本であった

私小説の面持ちを

両者の作品は共に、持たない。

 

巧妙に排除されている。

 

こう暴論めいたことを

書くのは、

全ての小説は

どう糊塗しようが私小説と

僕が断定するからです。

 

体験を暴露せずとも

全ての小説は私小説でしか

ありえない。

 

だって、私が書いているのだから。

 

一般読者は騙せても

同業者の眼は誤魔化せません。

 

『とんぼ』の中の

人物描写には

涙袋を膨らませ――とある。

 

『あるもの』には

ハズキルーペを買って

「バキバキに見えるわよ」

という台詞がある。

 

恐らく『とんぼ』の作者は

バキバキに見えるという台詞を

いわせないだろうし

 

『あるもの』の作者は

涙袋を人物造形の説明に用いない。

 

小説は言葉を選ぶことのみしか

選択肢のない技芸です。

 

何を選ばなかったかは

解らずとも

何を選んだ(残した)のかは

明白になる。

 

仮令、

自らの判断に自信がなく

自分自身の存在すら

曖昧であったとて、

選ばれた言葉で綴られた

センテンスは

一行たりとも均一的、

無個性であり得ない。

 

地雷型になれども

量産型にはならない。

 

だから

新しい作家の人達は

もう少し

己を知られることへの

警戒心をとってくれていいと

思ったりもいたします。

 

裸体を観せろというでなく

どんなブラジャーかを

問うのでもなく

たまには、着衣に併せ

ヌーブラという選択もあるよ

みたいなことかな?

 

祇園のお土産屋さんで可愛い眉ハサミ(400円)

があってレジに行って1万円札出したら

「ノーコイン?」訊かれ

何を言ってるのかと思ったら外人に間違われ

小銭は持ってないのか?の意味だった。

「僕、日本人です」と返すと焦られました。

日本人はわざわざ祇園でこんなもの買わんか……

 

どうせ、

デビューしても

80%の作家は

3年と持たないし

生き残った中の更に

90%は10年後、

文筆で生計など立たぬが

この世界なのだし……。

 

伝えたいことは

伝えられるうちに

伝えておいた方が

いい気がします。

 

恋愛における告白と

小説は同じです。

 

あの時、いっておけば……

の、あの時は絶対に

巡ってこない。

 

それよか

無理と解っていながら

クリスマス、

バレンタイン、誕生日

 

タイミングがあるなら

ことあるごとに告った方が

打率は高くなるに

決まっています。

 

近代文学の黎明期、

多くの作家が間違えたよう

真実を書けというのではなく

 

人の気を惹くには

自分を晒け出すも

必要になるということなのです。

 

ヌーブラって

そういう為のものでしょ?

 

恐れず

思い切り泣いて

思い切り怒って

笑って、贔屓して構わない。

 

余りに自分勝手が

過ぎた場合は

編集なり校閲が

訂正を求めてきますから。

 

文章を書くとは

即ち、恥を掻くこと。

 

僕等は、

文法にのみ従えばいいのですよ。