小説に限らず文章は

読む人を説得させなければなりません。

 

ですから

 

雨が降っている(原因)

傘を持っていきなさい(主張)

 

というよう

どれだけ納得して貰えるかが

肝になります。

 

主張を通せればいいので

 

雨が降った時に備えて

 

この傘、可愛いですから

 

でも、なんでも良いのです。

 

一件、整合性があるように

思わせられれば

原因と結果は結びついていなくとも良い。

 

しかし、

『短いこの人生で一番大事なもの』

 

この作品集で

ばななさんは

主張に結びつく原因をすっ飛ばします。

 

原因を書かなくもないのですが

原因と主張は直感でつながります。

 

 

正岡子規は

俳句、短歌は

説明臭くなっては良くない

といいました。

 

17音、31音しか使えないのだから

説明に割くのは勿体無いし

無粋――という考え方です。

 

原因は

結果に内包しておきなさい

それがいい句です

が、子規の指導です。

 

 

適切な意見ですが

これを小説に応用すると

読者が混乱したりもします。

 

 

雨が降っていた。

僕は淋しかったのだ。

 

こんな小説は、困りますよね?

 

しかし、詩としては

これでも説明的過ぎるくらいに

原因と結果が述べられていると見做されます。

 

ばななさんの

本質は詩なのだと思います。

 

普段は詩にしてしまうと

ポピュラリティを得にくいので

小説の形にして、噛み砕ける

親切なことをしている

作家なのだと思います。

 

でも偶に、暴走なさいます。

 

特にオカルトの分野においては……。

 

見えるから見えるのであって

見える理由を説明しろと

いわれても本人だって解らない。

ただ、見えるから解ることがあるので

それを述べます――としかやりようがない。

 

 

あとがきに

 

「自分で言うのもなんですが、

これがカルト的な意味で

名作だっていうことだけはわかっています」

 

と書かれています。

 

本人が断言なさっているので

その通りなのだと思います。

 

我が事に置き換えれば

僕は、ばななさんほど、純粋ではないので

常に主張を通す為に無茶苦茶なロジックを

まくしたてます。

 

泣かせちまえば勝ち――

そんな狡さも使います。

 

良くないですねイヒ

 

嶽本野ばら

 

 

 

ベル追伸ベル

 

久々にラクマやります。

8月28日発売開始予定です。

短いこの人生でそんなに大事ではないけど

持っていてもいいものを販売します。

 

 

 

 

 

この年齢になると、老いても教養のある人は

スキンケアを頑張っている

という訳ではないにせよ

男子女子に拘らず、

佇まいがシャンとしておられ

見苦しくないを実感します。

 

若い時代は情熱や

モチベーションで取り繕えますし

元来、容姿が整っていれば

それが倍になって反映されますが

 

やがて歳を重ねると、

摂理として見た目が汚くなっていきます。

 

それでも

教養豊かな人は、それに関係なく

気持ちの良い印象を纏っておられます。

 

物忘れは非道くなるでしょうが

教養は、一日、一日、

堆積していくものですので

逆に、ピークが下がった辺りから

外に姿を顕すのかもしれませんね。

 

どんなに頑張っても

一日に読める本の量は限られるのですから

十年、二十年、三十年と長い年月を経て

結果が出るものなのかもしれません。

 

今まで無頓着だったのに

急にお金持ちになったから、

ハイブランドを着てみたけど、

着こなせてないので残念

と同じ道理でしょうか?

 

安いものを着回して

失敗して、考えてを繰り返し、

やがて経験値でハイブランドも

ラフに着用出来るようになる。

 

 

若い頃はどうしても、履修したものを

これみよがしに使いたくなるものです。

 

 

それが、

「いいスーツを着ておられますね」

「否、適当に羽織っているだけでして」

「不躾ながら、何処のものでしょう?」

「うむ、何処だったかな……」

タグを確認してみるとPRADAでした

――というふう、なるようなものかも。

 

 

昔、読んだ筈ですが、

永井荷風「ふらんす物語」、

まるで憶えていませんでした。

 

でも、この歳だからこそ

しっくりきます。

 

「墨東奇譚」みたく

歳を経てからの作品の方が

いい筈ですが、若い時代の

風景画のようなこの作品が

清々しく身体に入ってきます。

 

それなりにラクに

読みこなすだけの教養が

自分にも

付いたということでしょうか。

 

生きようと悶く、飢えまいと急る。この避く可からざる人の運命を見る程悲惨なものはあるまい。自分には自殺した人や病気で死んだ人に対するよりも、単に「生活」と云うものの為めに目覚しく働いている人を見る時如何に辛く如何に傷しく感ずるであろう――「霧の夜」(ふらんす物語)

 

人生のピーク期で既に、

これに共感しちゃイカンですわな。

 

レチノールより、確実に効く

永井荷風の「ふらんす物語」。

抒情成分、200%配合。

医薬部外品ですが、おすすめです。

 

 

効果・効能には個人によって差があります

 

 

 

大野露井さんから著書を頂き、感想を送ろうと思えど、宣伝になった方がよかろうと書評じみたものを少々。

 

SNSや文学フリマの底上げもあってか、最近の若い人は文章が上手いです。

 

だからそこには触れないことにして。

 

最初に収録されている「劇場」――。

 

針刺しを横に置いたのに特に意味はないです

 

ロンドンを散歩しているだけの風景画のような短編。

 

そこが良い。

 

わざわざ小説を書こうという人は何かを言いたいから書く訳ですが、彼の場合、そのモチベーションが見当たらない。

 

悪口ではなくて……。生田耕作が『ダンディズム』で論じたボー・ブランメルを想起させます。

 

ブランメルは、服にしか興味がなく、延々とネクタイの結び方を研究していたような人で、生田耕作に拠れば、

 

すなわち、ダンディズムは〈知性〉と〈意志〉とをつなぐ鋼鉄のくさりである。この一種の禁欲主義が到達する果ては、醜い情念をきびしく制御し終えたときに得られる、不感無感の境地である。

 

だそうです。

 

この文言をもってして、大野露井を語れた気がします。

 

不感無感――と書いてニヒリズムと読んでも良い。

 

文体や構造は海外の現代文学の影響下にある(予想)。

 

かつて大江健三郎は、村上春樹をフィッツジェラルドの模倣に過ぎぬがここまで完コピ出来るのは称賛に値する――というふう評しましたが、でも村上春樹には村上春樹の自我があります。

 

大野露井は観せないんですね、自身の自我を。

 

唯一解るのは、この人がロンドンを盲目的に崇拝しており、小説を書かなければと思っていることのみ。

 

 

ロンドン最強説を唱えるのですから、スノッブな作家なのは間違いなくて、「秋の夜長の夢」という作品では、わざわざ、「俥にも乗った」というふう、車でななく俥と表記したりする。

 

ロンドン愛好家なので、漱石の話題も出てきますが、僕の印象だと漱石より、鴎外の気質に近い。鴎外のやたらとドイツ語を混ぜてきたり(特に医学用語)、高踏の振りをして和漢に通じてます――をゴリ押ししてくる感じが、そう思わせるのでせうか。

 

このフィルターをかけてしまうと、大野露井は、ロンドンを語りながら、日本の近代文学の流れを、真っ向から引き継ぐ作業をしようとしている作家と位置付けしたくもなる。

 

なので

LONDONではなく彼の眼に映るものは倫敦です。

 

ペダントリーを気取るのが昔より、困難になった昨今。よっぽど博識でもチャットGPTに揚げ足をとられる。

 

しかし文学者はやはりペダントリーでなければ面白くないと個人的には思います。

 

僕らの若い時代は、プロデュースをオーガナイズと言い換えたり

編集をエディトリアルとしてみたり

言葉の定位を、ずらせていくだけで格好が付けられた訳ですが、もうそれは通じない。

 

茨の道、進んではりますなぁ……と敢えて京言葉でねぎらってみます。

お若いのに大変どすけど、頼もしおすわ。

 

地味にではありますが、彼のような若い世代に拠って、確実に文学は変革されています。

 

僕はもう旧世代なのでそれを見守りつつ、相変わらずなものを書いていこうと思います。

 

久々に開いたら、めちゃ赤線が引いてある😅

僕は本に線を引くタイプじゃないのですが

当時よっぽど啓蒙されてしまったのだろう

——生田耕作の「ダンディズム」

 

 

嶽本野ばら