ローマ教皇フランシスコが4月21日、死去なされました。
かつて教皇は2019年に来日し大浦天主堂を訪れられていて、その確か一ヶ月後くらいに僕は大浦天主堂に行ったのですが、周囲のカトリック関連のお店やスペースには教皇関係のポスターやグッズが溢れかえっていて、如何にこの訪問が現地の信者さん達にとって重要な出来事だったのかを思い知らされた気がしました。
フランシスコ教皇に関心を抱いたのは、就任後まもなく、あるゲイの男性が「自分には信者の資格がないのか?」訊ねられた時、「神はそのままの貴方を愛してくれる。貴方をそのようにお創りになったのは神、ご自身なのだから」とお答えになった――というのが報道なされた時でした。
この時教皇は「神は誰一人必要のない人間などお創りにならない」おっしゃったと僕は記憶していたのですが、捏造の記憶やもしれません。しかしこれを報道で知った時、自然と涙が込み上げたのは、よく憶えています。
僕のように信者でもなく、カトリックの歴史の圏外の国で生まれ育った者にとっては、ローマ法王の言動がどれだけの影響力を持つのか、実際にはよく解らないでしょう。でも一応、知ったかぶりするならば、それは天地を揺るがせるくらいに重いのです。ですからこの教皇の発言で、カトリック界は大混乱しました。
現在もカトリックに於いては厳密には離婚すら赦されません。時代の流れや意識の変化と関係なく、カトリックには宗教としての規範が厳格にあってそれは、宗教であるが故に絶対、守られなければならない。ダーウィンの進化論も未だ認めていないくらいですし……。そこに同性愛を容認すると受け取れる発言を新しい教皇がしてしまったのですから、そりゃ大混乱に陥りますよ。
枢密教の時代から同性愛には寛容なスタンスであった――や、シビルユニオン法に積極的だったという話も聴きますし、その一方、フランシシコが同性愛者を侮辱したという噂も耳にします。が、それらのどれだけを僕等は鵜呑みに出来るでしょうか?
個人的な浅い解釈で申すなら、飽くまでもフランシスコはローマ法王である限り、同性愛は罪である(あってはならない)というモラルを尊重したのだと思います。ならば何故に「神はそのままの貴方を愛してくれる」とおっしゃったのか。
教皇の本意はこうであったのではないでしょうか。
「カトリックに於いて同性愛は罪である。しかしその罪を背負う者にも信仰の自由はある。どんな人間であれ信仰する限り神の子供である。一切の差別、選別はなされない」
ローマ教皇という最大権威の立場でフランシスコは限界の言葉を差し出されたのではないでしょうか?
振り返れば、LGBTQへの意識改革がクローズアップされたのは、このフランシスコの言葉が世に出てからでしょう。そしてこの国では隙あらば有識者達が「LGBTQへの理解がないのは意識が低いですねぇ」と自分の意識の高さを誇示する為のマウント合戦を繰り広げるようになりました。
的を得ていない意見や問題定義を示したい人は、まぁご自由にどうぞと――ではあるのですが、そのように狭い了見ではなく“全ての人が信仰に於いては平等である”ことをローマ法王でありながら勇気と信念をもって伝えたフランシスコの聖職者としての生き方を、僕はこれからも自分の心に刻んでおきたく思います。
カトリックの権力者の中には、贅沢を厭い、清貧を貫く彼の法王としての姿勢を非難する人も少なからずいたといいます。ヴァチカンも大浦天主堂も思い切り観光として行ってしまった僕に、語る資格はないのですが、訃報をニュースで眼にして、結構、しんみりとしてしまいました。ご気分を害されたならどうぞお赦し下さい。