つばさは幼馴染みの

ひばりから連絡を受ける。

ひばりは現在、

カルトの共同体で暮らしている。

助け出して欲しい――

つばさは彼女に逢いに行く――。

 

冒頭からの余りの美しさに

戸惑いつつも、

突如、気付く。

 

ひばりの世界は

死の暗喩――メタファー

であり、

つばさの世界は

生の暗喩――であると。

 

どちらが

邪で正しい訳ではない。

 

コインの表裏のようなもので

合う、合わないが

あるだけなのでしょう。

 

只、ひばりは今、

自分がいる

世界に違和感を憶えている。

だから、

つばさがいた世界に

帰ろうとした――。

 

違和感が

無感覚にならない寸前に。

 

想えば、

ばななさんは死と生の

隣り合わせ

を描き続けてきた。

 

そして、

合う、合わないの

差しかないと

了解した上で、

死ではなく

生に向かうことにする

自分の衝動を、

文章にしてきた。

 

そういう意味で僕とは

対照的。

 

苦しいくらいの

テンションの

言葉が紡ぐ物語の

美しさの正体は、

過酷な環境で生きる為、

虫さえ食べる性能を

身に付けてしまった

食中植物の

フォルムの

在り方と同様

かもしれないです。

 

死と生といえば

語り過ぎといわれる

かもですが、

ハイジは

アルプスの山が恋しく、

クララとの都会暮らしに

申し分はないものの

病気になり

アルプスに戻るではないですか。

 

合う、合わないは、

あるんです。

 

どっちでも

生き延びる図々しさも

あるけど、

そういう人には

小説なんて必要ない気がします。

 

『はーばーらいと』は

どっちの世界でも

生きられる強かさや粗暴の

讃歌ではない。

 

登場する者達は、

生を選ぶのだとしたら

死を――

世界の半分を

失う究極の覚悟でそれを持つ。

 

つまり

特攻の覚悟は

死へ向かう者だけの

専売特許ではないのです。

 

生きる覚悟をした者も

同じく特攻で、

それを背負う。

 

もしかすると

生きる覚悟の方が

困難なのかもしれない。

 

 

濃度が異質で、

実は、

これは遺書のつもりなのかな

と、読みながら、

恐かったんです。

 

ある時期から

ばななさんは

友人知人への

献本を辞めました。

 

僕等の元には何故、

献本を辞めることに

するのかの

丁寧な文章が届きました。

 

でも献本廃止の文章の中に

とはいっても

絶対ではないし、

送りたい人に

急に送る場合も

あります――の一文もありました。

 

 

この裏事情もあって、

今回、何年振りになるのか

解らない新刊の献本に

僕は、遺書を

感じずにいられなかったのです。

 

最後まで読むと、

遺書でなく、

急に送ってみたくなったのか

と、安堵したのですが、

 

でも、これは駄目ですよ、

ばななお姉様――!

 

ここまで研ぎ澄ましたら、

後、何を書くの?

と、

大島弓子が

『綿の国星』に辿り着いた

時のようなざわめきを

抑え切れませんよ。

 

 

 

全員、

読むべきだと思います。

 

僕の場合、最初から

読者を限定してますが、

ばなな作品は、

全ての読者を対象に

する懐の深さを持ちます。

 

これはもう

資質の違いなんでしょう。

 

 

だから世界中の人が

『はーばーらいと』は

読むべきです。

全然、違う

感想になっていいと思います。

 

但し、滅茶苦茶、

厳しい部分があるので

安全な作品ではないです。

覚悟を決めて

読まないと後悔することになります。

 

そこを含めて、

落ちこぼれの

読者を作らない作風、

どうして

こういうふうに書けるのかな?

僕にはさっぱり解りません。

 

というか、

ひばりの美貌を

AKBの頃の北原里英と

坂本美雨を足して

二で割った――

とたとえているのも

よう解らん!

 

どうしてその二人を

持ち出すのか?

二で割るのか?

妥当な人が

乃木坂にはいないのか?

 

『はーばーらいと』に不備が

あるとすれば

この部分のみです。

 

 

野菜シスターズでは紫いもの北原さん