毎年、

クリスマス文章を

書くように

していたのですが

今年は――

 

父が痴呆で入院し

ホームに入れなければ

ならぬことになり

様々な準備で毎日が

手一杯なのである――

 

書けませんでした。

 

 

――母と離婚し

約30年もの間、

音信もない状態の

父であったので

年金の資料やあれこれが

何処にどう保管してあるか

全く解らず、

クリスマスは泊まり込みで

父のマンションを

一人で整理していた――

 

しかし、やはり

クリスマス文章は書きたい。

 

――最大のストレスは、

雑務に追われることでなく

執筆のまとまった時間が

取れないことだった――

 

ということで

遅ればせながら

今年の

クリスマス文章です。

 

 

このところ、

本を読む時間すら

ままなりませんでした。

 

先達は昔から

本を読みなさいといいます。

 

最近はネットでも

好きな本を教えあったり

感想を言い合うのが盛んな

ようです。

 

皆、本を読む

必然性のようなものを

本能で察して

いるのかもしれません。

 

だからという訳では

ないですが、

僕も君に本を読むことを

勧めます。

 

イエスは自分を愛するように

隣人を愛せ

汝の敵をも愛せ

無茶なことを要求しましたが、

僕は

読書のみを君に求めます。

 

何故なら書物は、

君を否定しないからです。

 

君が左翼思想の持ち主で

君の手にした本の著者が

国粋主義の

人物であったとしても

その本の内容は

決して

君を否定しないでしょう。

 

君が、その本を読み、

否、ここに

書かれていることは

全く間違っていると

憤慨する

ことはあるやもしれませんが、

本が読者である君を

否定することなぞ

決してありゃしないのです。

 

どんな本でもそうなのです。

 

下手糞極まりない

文章の著者のものであれ

凡庸な娯楽小説であれ

本は君そのものを否定しません。

 

もし君を

否定する本があるとすれば

それは自己啓発本という

あの厭らしいジャンルの

ものだけではありますまいか?

 

僕達はよく否定されます。

社会においても

友人間に於いても

家族に於いても

容赦ない否定をくらいます。

 

ネットの内容も

君を否定してくるものばかり。

 

君ばかりではなく

君の大事なものすら否定する。

 

それで

自信をなくしてしまったり

躍起になって反論したが故、

言葉尻をとられ、

手酷い仕返しを受けてしまう。

 

(穢い言葉ほど、説得力がある)

(心ない言葉ほどダメージは増す)

 

だけど、本は君を否定しません。

 

孤独を好む者達が

本を読むことに

人生の大半を費やすのは

本が読む者を

否定しないからです。

 

どんなに君が偏向し、

駄目であろうと

本は読む者を否定しない。

 

音楽や絵画とは異なる

それは本だけが持つ

特殊な

性質かもしれないです。

 

知識を得るとか

見聞をひろくするとか

そういうものは

大した

メリットじゃあないです。

 

それを物語るのは

図書館の静謐でしょう。

 

あすこでは

誰もが孤独であること

社交性が持てないことを

咎められない。

 

人気のある現代の小説、

一度も開かれることのない

無名の著者の研究書、

図鑑、目録、

古代ギリシア時代の人が

記した哲学書……

 

収蔵されている

雑多な本は全て

どんな人間をも否定しない。

 

だから君は、図書館に

身を置く時、

妙な安堵感を憶えるのです。

 

嗚呼、僕達は、

自身が否定されることの

恐ろしさに耐え切れず、

何度、

くだらない妥協や追従を

繰り返したでしょう?

 

紙でなく、電子でも構わない。

本であることが重要なのです。

 

僕はかつて、

君の人生を狂わせる

ものを書いていくといいました。

それは今でも変わりません。

でもこれからは

君を安心させるものを書いて

いきたいとも思うのです。

君が安心して

狂うことの出来る本。

 

本であるのなら

そういうものをこしらえても

罪にはならないだろうと

思うのです。

 

2022.12.29