古井由吉さんの

遺稿となった作品を

読む。

 

殆ど読んだことが

ないので

特に感慨もないのですが

かつて、病床の松本雄吉を

見舞った時に、松本さんが

最近は古井由吉をよく読む

のだと語っていたことが

鮮やかに、蘇って

きたのでした。

 

「ああいう古い言葉遣いの

人の本が入院をしてると

心地いいんや。

そもそも、頭の中、思考言語が

古語なんやろな」

 

お前もそういう調子を使うけれど

ワザとやってるから……。

 

指摘され

頭を搔くばかりでしたが

こうして古井由吉に

触れてみて、合点をする。

 

古井由吉は速度が、

遅いのだと。

 

未完の原稿は

約30枚程度なのですが、

読むのに時間が掛かる。

 

センテンスが長いからでも

改行が少ないからでも、

なく、

 

ましてや

松本雄吉がいうよう

古語混じりの

文体だからでもない。

 

どちらかといえば

この人の文章は平易な言葉で

書かれているし、

読みやすい。

上手い作家の、それです。

内向の文学――と

記されれば殻に

閉じ籠り、

右往左往、混線している

ものを想像しがちですが、

描写は簡潔で、

迷う回路が見当たらない。

 

それでも読むに

時間を有してしまうのは、

テンポが超スローだからだと、

気付く。

 

喩えるならば、

4ビート――。

 

僕なぞは

です・ます調を使いながらも

16、32くらいの速度の

文章を、書いている。

 

昔の作家でも

なかなか4ビートは、

いない。

8ビートくらいは、

うっているものです。

 

この速度のノロさは

研磨の末、ワザと

調節したものでしょう。

 

松本さんは、

舞踏、演劇に入る前、

絵描きでした。

 

彼の芝居は脚本の前に

譜割りのようなものが

配られる。

台詞が出来てくるまで

僕等、役者は

延々と、

メトロノームに合わせ

動きを練習させられる。

 

松本雄吉は、

画家であった頃に見据えた

“輪郭”を

演劇に転向してからは

“速度”として

捉え直したのでは

なかったか?

 

松本雄吉の維新派は

暗黒舞踏の集団で

あった頃、

資金を稼ぐ為、

ストリップのショーに

出ていたらしい。

が、観た人によれば

動きがあまりに速過ぎ、

エロさの欠片も感じない

変な舞台だったと、いう。

 

今、

古井由吉を読むと

松本さんが

古語の文体と捉えて

いたのは、

速度、リズムの緩やかさの

ことだったろうと

理解出来ます。

 

松本さん自身が、

早いビートの人だったが故に

そのような認識になったと

考えると、納得やれるのです。

 

早いビートよか

遅いビートを正確に刻む

方がよっぽど困難であるのは、

少し手習いのある方なら

解るでしょう。

 

数冊、ちゃんと読んで

おれば、そんなことを

話し合えたのに――

 

恐ろしい速度で

線を描いていき

終えたなら、

作品の形骸を一切、

消し去るのを美学とした

演劇の人と、

緻密にコントロール

されたスローな速度の

文章を文学として

成立させることに専念した

小説家は、

お互いを

まるで知らなかった

訳ですが、

僕の中で、出逢っている。

 

「ああいう古い言葉遣いの

人の本が入院をしてると

心地いいんや」

 

見舞いに行ったのは

延命することはあれど

もう、手術でも助からない

――知人に

教えられたからでした。

 

他にも話した

記憶がありますが、

何故か、

僕の中には

古井由吉を

読んでいるということしか

残っていません。

 

最期の病床で一体

自分は何を読むだろうかと

想像する。

 

バイロンとか読んでいれば

カッコいいけど

自分の『それいぬ』

読んで泣いてるかもね。

 

『ドカベン』とか

持ってくるなよ。

読んでないのに

病床の片隅には

全48巻の『ドカベン』が

置かれていた

とか、ウィキペディアに

書かれたくはないですからね。

 

古井由吉の遺稿掲載の「新潮」5月号

 

2020.04.09 嶽本野ばら