あの日々を思い出していました。

 

疲弊した、

灯りが極力消された街を

俯き歩く人々が、

行き先の地図をなくした

亡霊のように見えた。

 

一人で暮らしていれば

情報元はテレビや

インターネットしかない。

僕のような

毎日、何処に

通勤するでもない人間は

本当にそれしか頼るものがない。

 

子供の頃から孤独に強かった。

否、自分でも欠陥を感じる程に

それを安住とし、

群れを疎んじていました。

 

それなのに

話し相手が欲しかった。

数名から

安否の確認などがあるけれど

何処か形式じみている。

 

基礎としての

グループを——

家族であったり、

愚痴をいうばかりの

毎日顔を付き合わす

安月給の会社の仲間

だったりする——

大抵の人は複数持っているし

業務連絡のような

ものであっても

そこにある情報は

状況を知る為には、

メディアよりよっぽど

有益だとSNSの

カキコミを読みながら思う。

 

現地の方々、大丈夫でしょうか?

 

政策への批判のRT

 

どれもが

安い広告のようでした。

 

そうではないのだろうけれども……。

 

僕は今、

苦手ながらも家族と暮らしていて

京都という呑気な場所に

住んでいますから、

恐らく、もう、

切実ではないのです。

 

百円で買った

コクトーの詩集を、

ペラペラと捲りながら

検索して見付けた

原詩と比べる

ようなことをしておれば、

時間は経っていきます。

 

もし貴方が

あの頃の僕と同じく、

話す相手がない困窮で

心身を

膠着させ続けている

のであれば、

どう出来る訳でもないのですが、

——それは、おかしなことでない

——くらいの気休めはいえます。

 

古い本を

読み直すのも

暇潰しにはなりますし、

ひたすらに、厭らしいこと、

をとことん想像してみるも

いいかもしれません。

 

僕には難解で軽薄な

コクトーの詩集が

今は心地良いですから

それを差し上げることもやれます。

 

自分と同じ

名の詩を見付けたのですよ。

 

茨の花は罠

子供らしい戦ごっこの

むごたらしい飾りもの。

 

愛すべき花盗びとの

サド侯爵

恋人として手に血ぬる。

 

侯爵は雪の上に署名する

そして鏡の上に

ダイヤモンドで嘘をつく。

 

Rosier souvage

 

堀口大學・訳

 

あの時とは違う、

多少の余裕を持つ

無責任さで述べますと、

 

知性は

偉くなる為や裕福になる為に

研磨するのでは

ないということです。

多分、孤独に打ち勝つ

唯一の武器が

知性なのではないでしょうか。

 

僕は貴方の傍で

話し相手には

なれやしないですが

同じ時刻に同じ詩集を

読むことはやれます。

 

明日、

または生活の不安に

就いて語り合ったとて

立場や状況が

全く異なるのですし

大して役に立たないでしょう。

 

でも、

コクトーの詩の解釈に

就いてなら

同じ条件と立場で

やれると思うのです。

 

堀口大學の訳は非道いですよ。

 

でも僕はやっぱりこれが、

好きですね。

貴方はどう思われますか?

 

 

2020.4.4 嶽本野ばら