病院からの帰り、狭いけど少し交通量の多い

道路で何台かの車が渋滞のように、

なっていた。

原因は一台の車が道の真ん中でストップ

しているからだった。

その車の後方に並ぶ車の数台がクラクション

を鳴らす。

それでもストップしている車は動かない。

クラクションを鳴らしていたであろう

一人の運転手が車から出てきて

原因となってる車の運転席の横まで進み、

「なにやっとんじゃ、ボケ!」

怒号を吐いて、自分の車に戻る。

それでも止まった車は動かない。

運転していた人が

発作か何か起こしたのではないか

或いはエンストとか?

と思い、様子を観に

いこうとすると、助手席からお婆さんが

出てきて、対向車線に止まっている

客待ちのタクシーの運転席の窓を叩いた。

 

「すみません。少しバックして頂けますか?

運転しているものがハンドルをうまく切れないんです」

 

タクシーは少しバックした。

止まっていた車は少し動いた。

でも前方に出来たスペースがその人にとっては

まだ充分にハンドルを切って通り抜けられる

幅ではなかったのだろう。

車はすぐに停止した。

さっき怒号をあげた人が、再び出てきて、

「ちんたらやっとたら殺すぞ、ボケ!」

といい、自分の車に戻った。

更にタクシーが、

少しまた後ろに下がったので

どうにか車は発進し、摺り抜け、

後続の車が、流れ始めた。

 

僕は運転が出来ないから

この時、運転している人が

差し迫った状況であっても、

運転を代わりましょうと

申し出ることが、出来ない。

運転したことがないので、

その運転手が運転をしてはいけないくらいに

技術がヘボなのかどうかすら解らない。

でも、痺れを切らして

わざわざ文句をいいに出てきたのであれば、

ハンドルが切れず立ち往生してしまって

いる状況は察せられただろうから

罵倒する前に、

「大丈夫か? 運転代わろうか?」

声を掛けたっていいじゃないかと思った。

タクシーに、

「オッサン、一寸、バックしてやってぇな。

あの運転手、クソヘボなんや」

いいにいったとて、損なことはまるでない。

 

優しい人を気取るつもりは

さらさらない。

僕が憂鬱になるのは

その案を思いつけない人が

同じく車の運転をしていたことに対してだ。

少なくともその状況に於いて

僕がやれることより、

その人がやれることの方が遥かに大きい。

運転出来ない人より

運転の出来るその人の方が“特別”であるのに

その“特別”な力を行使せず、

同じ“特別”な力を有してはいるが

劣っているものを、ただ罵倒する。

 

自分の“特別”を無駄にするな——。

 

自分の“特別”な力を顕示するいやらしさより

自分の“特別”の使用をおろそかにすることの

方が嫌だ。

 

コンビニの店長は店員より“特別”だ。

先輩の店員は研修の店員より“特別”だ。

 

トイレを貸してくださいという時、

「すみません。うちは貸せないんです」

研修の店員は断らねばならぬだろうが、

先輩の店員は、

「本当は駄目なんですがね」

自身の権限で貸そうと思えば貸せる。

「俺の店のトイレなんだから俺しか使えない」

店員にすらトイレを使わせぬ

コンビニの店長は“特別”であることの

意味を履き違えている。

 

全ての人が何らかの“特別”を

複数持っているだろう。

自分に与えられた“特別”を

可能な限り有効に活用出来ればいいなと思う。

毎回は出来ないだろうけど、

10回に1回くらいは使えればいいなと、思う。

 

                                      嶽本野ばら 2018.02.13